マイクロ・デポ株式会社”公式ウェブサイト”「マセラティに乗りませんか・・・」

サイト内検索
ココログ最強検索 by 暴想
2017年2月
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28        

カテゴリー

無料ブログはココログ

« たこたこナゼか雪国へ(その5) | トップページ | たこたこナゼか雪国へ(その6:ようやく完結篇) »

2014年1月17日 (金)

あれから19年なんですね・・・

 その頃はまだ、都内のマンション住まいから現在の千葉拙宅に引っ越して間もない時分で、毎日早朝5時に起きては、即時トーストを咥えつつ、テレビのニュース番組をBGVに慌しく身支度を整えて、走りこむようにしてクルマに飛び乗り、片道二時間の道行きで通勤してたものです。

 自分にとっては、早朝の日常的な風景でしたが、その日だけは、テレビの画面に映る映像がいつもと違ってました。高速道路が崩れている。街のあちこちから炎が立ち上り煙が出ている。刻々と映像は変わり、音声から次第に現地の状態が分かってくる。しかし、その情報は錯綜し、二転三転と変化していきました。色々なテレビ局の報道を見ようとザッピングしつつ、そのまま一日中テレビに釘付けになっていたかった気持ちは当然やまやまでしたが、「一体、この先どうなっちゃうんだろう」と思いつつ、後ろ髪をひかれるように我が家を出ました。

 クルマの中では、当然ラジオで急遽組まれた報道特別番組を聞きながらの通勤でした。想像以上に相当大きな被害が出ていることも分かってきました。実は”第一報”をテレビで見聞きした時には、後に”阪神淡路大震災”と呼ばれ日本国の歴史に名を刻む事となる世紀の大災害が、ただいま現在、そう、千葉県内を慌しく自分が通勤する日常を送っている、この同時刻に西の地方で発生し、今まさにそれらの街が大混乱しているという実感はありませんでした。

 その後、今日までの間、仕事上の出張や、趣味の旅の中で、京阪神で被害の大きかった地域や、淡路島にも何度か訪れる機会がありました。街々は逞しく復興を遂げ、表面的には平静を取り戻したかのように見えておりますが、当時の大震災で親族を喪った方々、職を失い生活の急変を強いられた方々、また怪我などによって傷害が残った方々や御家族にとっては、いまだに言葉に出来ぬやりきれなさは残っている事と拝察いたします。

 19年経って、自分の日常は変わりました。朝は歩いて3分の道行きの通勤。今日は7時のニュースで、早朝の地震発生時刻に現地で行われていた黙祷の映像を見ました。「ああ、今日だったんだ・・・」日々の自分の生活に追われるばかりで、今朝が”その時”であった事を完全に忘却していた・・・恥ずかしい限りです。

 明後日は亡き実母の誕生日。生きてりゃ何才だったんだろう。昭和14年生まれだから、75才か。災害で喪った訳ではないけど、自分の身内だからか、それでもやはり一抹のやりきれなさはいまだに残ります。それからもずいぶん経ったものだが、実に何年経っているのかがどうにも思い出せない・・・親不孝者ですね。

 東北の方も、もうじき三年です。この日付の方は、親の命日忘れても、呆ける迄憶えていそうだけれど。思えば”忘却”と云うのも、そもそも人間に備わった、脳に都合の良い機能なのかもしれません。つらかった経験など出来るだけ早く消去してしまいたいですからね。どういう訳か嫌な方の思い出はなかなかどうして消えてくれないんだけど。せめて未来は、いいことばっかりですべてうまくいくといいですね。

 それでは、また明日。

 2013年3月4日以前の過去記事は、「マセラティでイッてみよう!:Part2」で。

 このブログを読んで、マセラティを初めとするイタリア旧車の世界に足を踏み入れたくなってしまったアナタ(あんまりいない様な気がするケド:笑)は、マイクロ・デポ株式会社の公式ホームページ「マセラティに乗りませんか・・・」の方ものぞいて見てくださいね。さらにディープなネタ、やってます。

« たこたこナゼか雪国へ(その5) | トップページ | たこたこナゼか雪国へ(その6:ようやく完結篇) »

コメント

 あの時は朝から職場で暇な時間帯はテレビにかじりついていたのを覚えています。
 記憶が定かでないのですが、あのちょうど1,2年前に神戸に観光で行ったのですが、そのとき歩き回った所がことごとく壊れていて、愕然としました。
 同僚が二人神戸にボランティアに行ったのを覚えています。 大阪から歩いて行ったって言っていたような・・・

もう19年も経過してしまったのですね。
当時、私は埼玉で学生生活を過ごしておりました。高速道路が落ち、ビルが倒れ、火災が発生する都市のTV報道には衝撃を受けました。
思い起こせば至る所で多くの自然災害が発生しておりますが、時間は“待った”を聞き入れてはくれません。

「未来はいいことばっかりですべてうまくいく」なんて事は残念ながら有り得ません。神のみぞ知る。
せめてもの癒しとしてマセラティを始めとするデポ謹製車両を愛でようではありませんか。

当時ワタシは大阪勤務で、現地で地震を体験しました。
大阪市内は震度4だったのですが、強烈な縦揺れでただならぬ気配を感じました。
その後は皆さん映像でご覧のとおりです。

当然電車は止まり、バスと昼過ぎ開通した地下鉄を乗り継ぎ会社に着いたのが14時過ぎ。
出社メンバーで神戸方面に住んでいる方々の安否を公衆電話で確認。
何人かは電話がつながったものの、一週間電話がつながらない方もいました。
そして身内の方が建物の倒壊で亡くなった方もいました。

クタクタになって当時住んでいた寮に戻ったところ、実家からと関東からの友人の電話で
気分が多少落ち着いた、そんな19年前でした。

この日の出来事と、3.11の出来事(知ってる人は知っている、デポで契約した日!)は
今後も私的に忘れることはない日にちです。
今朝の5:46は、出勤途中の寒空の駅ホームで迎えました。

 あの頃は、今より忙しく生活していました。知り合いや親戚が被災したということもなく、現実的な感覚が、正直持てませんでした。震災1年前と震災2年後と、三宮、神戸を訪れることがあり、すっかり変ったことに驚嘆しました。。。ここ最近10年くらい神戸を訪れていませんので、どう変化したのか。。。
 19年という月日が流れて、今現在、ここでコメントを書いているというのも予期していなかったことで、不思議な感覚です。

嫁さんの実家が神戸長田であの朝は仕事場で泊まり込んでいて、早朝の電話でたたき起こされました。実家への電話が通じずやきもきしたけれど、やっと携帯で繋がって無事が確認できました。
直ぐ近くでは全壊の家もあったらしいけれど幸運にもブロック塀が崩れたぐらいで皆無事だったのが幸いでした。
因みに大阪の私の実家の方がマンションの高層階だったので上からものが落ちてきて大変だったみたいです。
一日遅れですがいまだにあの日のことがまざまざと蘇るのでひと言。

↑皆々様方、いつもコメントを有難うございます。「町内会のM」さんは御夫婦ともに御実家が被災されたのですね。人的被害が無かったとの仰せに心が少し軽くはなりましたが。東日本の時も、なかなか連絡のつかなかった千葉館山(”大津波警報”が出ていた)の親父と「Sm」さんの安否をじりじりとした思いで心配していたものです。あの一週間は長かったな。

コメントを書く

(ウェブ上には掲載しません)

トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.f.cocolog-nifty.com/t/trackback/1353420/54644013

この記事へのトラックバック一覧です: あれから19年なんですね・・・:

« たこたこナゼか雪国へ(その5) | トップページ | たこたこナゼか雪国へ(その6:ようやく完結篇) »