はい、こんばんは!本日はとりあえず全勝は逃したものの、14勝1敗で迎える千秋楽って感じの一日でした。よかった、ヨカッタ!天気は相変わらずピリっとしないし、寒いよなァ~。
ところで、昨日のコメント欄を拝見しておりましたら、「テツヲタ」さんが”コアな練馬バナシ”に言及していたんで、なぜか”練馬LOVE”なワタシも郷土愛を奮い起しまして、このようなネタを仕込んでしまいました。
練馬区の公式サイトは結構充実の内容でありまして、区内各地の古写真を見るコトも出来ますし、町名変更に伴っていまや聞くコトも出来なくなった旧い地名について解説したコーナーもございます。以下はそこからの抜粋ですが、ここに挙げる町名は、ワタシが子供の頃から慣れ親しんだ練馬区北東地域(練馬区のオリジンたる東京都板橋区や埼玉県和光市に隣接した地域)に限っての記述です。「おぐ」さん、「練馬のH」さん、「練馬のU」さん、「練馬のT」さん、皆さん同じ練馬区民(他地域)を長らくやってらした方々ですが、本日は出てきませんのでごめんなさい。「町内会のM」さんや「テツヲタ」さんにはズッポシです。練馬にまったく関係の無いほとんどの読者方には興味の持ち様が無い内容なんで、ホントに申し訳ございません(ペコリ!)
それじゃーイッてみよー!
春日町(かすがちょう:世界的に有名な”練馬大根”の総本山的地域。ワタシが二才の時から成人するまで住んでたところ。通ってた小中学校の所在地もココ。そして10年前までマイクロ・デポの本社があった場所。現在も実家跡地がマイクロ・デポのストックヤード兼大部品倉庫と化しており、他にも町内にはヤードが点在しておりますので、ワタシとは切っても切れないところです。)・・・飛ぶ鳥のアスカ、春の日のカスガと大和の地名は優しく、雅(みやび)やかだが、語源はいまひとつはっきりしない。ここ春日町の名の起こりは、旧村社春日神社(春日町3-2)に由来する。昭和7年、市郡合併で板橋区が成立、それまで上練馬村の中ノ宮、海老ケ谷戸、尾崎といっていた所が春日町1、2丁目となった。
春日神社は鎌倉時代、工藤祐経の孫、祐宗が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、自分の先祖藤原氏の氏神である大和の春日神社の祭神をここに勧請(かんじょう)して、戦勝を祈願したのにはじまるという。その後、練馬城(今の豊島園)の城主豊島泰経も一族の守護神として当社を深く崇敬した。豊島氏没落後、あとの城主海老名左近はここを居館の一部とした。小字海老ケ谷戸は海老名氏ゆかりの地名だという。
神社は江戸時代、十羅刹女(じゅうらせつにょ)社と呼んでいたが、明治の神仏分離で、十羅刹女社は隣の寿福寺(同3-2)へ、祭神は春日神社として祭られた。
愛染院(同4-17)前の交差点付近を中ノ宮という。江戸時代には近くに名主役宅や高札場、郷蔵(ごうくら)などがあって村の中心だった。明治になってから、そこに村役場や小学校、登記所ができた。
春日小学校(同5-12)建設に伴って古代遺跡が発見され、練馬の歴史にとって貴重な資料が数多く出土した。遺跡は地名をとって尾崎遺跡と呼ばれている。昭和42年、住居表示が実施された。[ねりま区報 昭和60年6月1日 掲載]
早宮(はやみや:区立小学校や中学校の学区域の関係で常に春日町とセットとなっているところ。特に早宮四丁目は隣接しているので関連性が高い。)・・・江戸時代は下練馬村の早淵(はやぶち)と、宮ケ谷戸(みやがいと)といった。二つの字(あざ)の1字ずつをとって今の町名にした。淵は澪(みお)のことで、川の底が深く、舟が通りやすいところをいう。石神井川の大橋辺から高稲荷下にかけては、両岸がせり出し、川は瀬となって水の流れが早かった。その付近の左岸(早宮1、3丁目)を昔から早淵前といっていた。
明治になって江戸時代の早淵は東早淵、西早淵、北早淵などに、宮ケ谷戸は北宮、中宮、南宮などの小字に分割された。明治22年町村制施行後は、これからの分割地名が公称となった。
ここは昭和4年練馬町を経て、同7年板橋区練馬仲町(4~6丁目)となった。昭和40年新たに住居表示が実施されることになった。地元では明治15年(1882年)開校の開進第一小の学校名をとって、町名を「開進」とする案が有力だった。しかし、開進の名は小・中学校おのおの第一から第四まで8校があちこちの地域にあった。だから特定の町名には、ふさわしくないということで早宮に決まった。
練馬区内の現町名のうち、旧地名の合成はこの早宮だけである。合成地名は歴史的に古いものの、最近は旧地名の尊重と否定の妥協の結果だとして、地名本来の純潔をあやぶむ声もある。[ねりま区報 昭和59年11月1日 掲載]
旭町(あさひちょう:云わずと知れた、現在マイクロ・デポの本店所在地。旧いマセラティの日本に於ける総本山だったり、メッカだったりするところ。町内面積当たりのマセラティ生息数は世界一・二を争うかも。当然「町内会のM」さんも2台のマセラティとともにお住まいです。:笑)・・・昔は土支田村(どしだむら)といった。江戸時代の土支田村は今の旭町、土支田、東大泉の全部と、光が丘、三原台の一部を含む大村であった。村は幅1km余、全長約6km、上組と下組に分かれていた。ここは下組であった。明治になって、上・下両組は別々の村となった。今の旭町と土支田は下土支田村に、東大泉は上土支田村になった(土支田村のことは別のところでふれる)。
明治22年町村制が布かれ、下土支田村は上練馬村に併合、上練馬村大字土支田と呼ばれ、昭和7年板橋区成立のとき練馬土支田町1丁目となった(2丁目は今の土支田)。
昭和22年8月板橋区から練馬区が独立した。それまで練馬何町、石神井何町といっていた練馬・石神井の冠称を、昭和24年1月1日を期してとることになった。土支田1丁目ではその際、町会有志を中心に町名変更が発議された。土支田1丁目では字数が多いし、土(どろ)くさい。希望のもてる明るい簡単な町名がよい。ということで旭町に一決したそうである。以来昭和43年、住居表示にもそのまま旭町が踏襲された。
町内には江戸時代からの歴史をもつ妙安寺(旭町3-10)、本覚寺(旭町1-26)、昭和36年田端から移った仲台寺(旭町1-20)がある。[ねりま区報 昭和59年11月11日 掲載]
土支田(どしだ:現在ワタシとたこヨメが通常潜伏している仮住居のある場所。ちなみにパ○ンコ屋は”出ない”。:泣笑)・・・昭和50年、住居表示で土支田1~4丁目となった。それ以前、昭和7年、板橋区のときは練馬土支田町2丁目といった。練馬区が独立して町名から練馬や石神井の冠称をとる際、土支田1丁目は旭町に町名を変更した。1丁目のなくなった2丁目は、ただの土支田町となった。昭和24年のことである。
土支田は土師田すなわち土師(はじ)器を作る人たちが住んでいた所という説がある。白子川流域には土師器の遺跡が多いし、遠くない貫井からは土師器を焼いた窯場跡が発見されている。また、土支田の支はキと読むのが正しく、斎田(ときた、神仏に供える田の意)と解する説もある。
土支田が歴史に現れるのは、永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』で、それに「六貫五百文 江戸土支田源七郎分」とある。源七郎は太田新六郎の家臣で、土支田のほか今の朝霞市にも所領があった。
江戸時代の土支田村は上下二つの組に分かれ、ここは下組の俵久保、西八町(丁)堀、三町目といっていた。八丁堀は長さ8丁(約880m)の堀があったからとよくいわれるが、それは文字に惑わされた説のようだ。堀はハリ(治・墾)の当て字で、新墾の地を意味する。原も同じ場合が多い。旧字名八町原、八町堀は広さ8町(約8ha、この場合は譬喩=ひゆ)の新開地ということらしい。三町目は「さんじょうめ」と濁っていう。由来は明らかでない。
土支田八幡(土支田4-28)は、むかし、「俵久保の天神さま」といっていた。[ねりま区報 昭和60年6月11日 掲載]
高松(たかまつ:この辺で唯一のまともなホテルであるカデンツァ光が丘<東日本大震災当日に、帰宅困難になった「Wさま」さんに強引に(笑)御宿泊頂いたホテル>の所在するところ。ワタシや「テツヲタ」さんの御子息方が通った幼稚園の所在地でもあります。みやもとファームって焼肉屋や人造人間キカイダーのロケをした幼稚園があるコトで一部にはツトに有名)・・・江戸時代は上練馬村の小名(こな)の一つであった。地名の由来は村内にこずえの高い松があったからとの言い伝えだが、今はその場所も明らかでない。高松には大きく分けて二つの小字(こあざ)があった。高松と大門(だいもん)である。現在、オリンピック道路(たこ注:現在の笹目通りのコト。ちなみに古くからの練馬原住民は、現在の目白通りのコトを十三間<じゅうさんげん>道路と呼びます。)に「高松大門通り」のバス停の名で残っている。
むかし、富士大山街道に面して高松寺(こうしょうじ)というお寺があった。明治初年、廃寺になって愛染院(春日町4-17)に合併された。江戸の文人十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)が書いた紀行『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』に高松寺のことがある。「当寺往来の路傍にありて大門凡(およそ)壱町(いっちょう)ばかり門の左右に石の仁王尊あり」。道から大門までおよそ1町(=約109m)というから大きな寺であった。地名の大門は、高松寺の門を指すのだろうか。
昭和7年、板橋区高松町1、2丁目となった。同18年、町の一部が陸軍の飛行場になった。飛行場は成増飛行場とも高松飛行場とも呼ばれた。今の光が丘地区の南西約3分の1は元高松町である。地図を見るとその様子がよく分かる。昭和44年、住居表示で現町名となった。
八幡神社(高松1-16)は村の鎮守で通称若宮八幡、江戸時代に御朱印8石をもらった古社である。御嶽(おんたけ)神社(同3-19)境内には高松寺にあった石仁王がまつられている。[ねりま区報 昭和60年5月11日号 掲載]
光が丘(ひかりがおか:元のグラントハイツ)・・・昭和18年、戦局は日ごとに激しさを増し、陸軍は首都防衛のため、飛行場の建設を急いでいた。白羽の矢は、ここ練馬の一角に当たった。土支田、田柄、高松3か町にまたがる広大な土地である。そこは、まだ町とは名ばかり、田柄たんぼや、練馬大根に謳われた静かで平和な農村であった。多くの農家が立ち退き、肥沃な田畑は成増飛行場と名前を変えた。
東京は丸焼けとなって、戦争は終わった。飛行場は"つわもの共の夢の跡"となってしまった。
昭和22年、練馬区が独立した。時を同じくして、飛行場跡に米軍宿舎が建設されることとなり、施設はグラントハイツと呼ばれた。明治12年(1879年)に来日したこともあるアメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍にちなんでの命名である。
それから10年余、施設の内容はだんだん縮小され、遊休化していった。昭和35年ごろから土地返還運動が起こった。23区内に残された唯一最大の空閑地である。返還の展望が開けた44年、区域全体に「光が丘」の町名を住居表示した。緑と太陽のまち練馬を象徴して名付けられた。
48年、区民一丸になっての運動がみのり、念願の全面返還が成った。グラントハイツ跡地計画には、住宅建設者から2万3千戸の建設が提案されたが、緑を多く確保するため、練馬区は1万2千戸を提案した。52年、練馬区案で合意され、平成4年に光が丘団地は完成した。
日比谷公園の約4倍になる光が丘公園は、一部が56年末に開園した。58年3月、1~7丁目の住居表示が、全街区にわたって実施された。[ねりま区報 昭和60年2月11日 掲載]
北町(きたまち:練馬陸運支局の所在地だから、ウチの三男が日々日参するところ。)・・・東武東上線・東武練馬駅を南へでると、旧川越街道である。すでに鎌倉時代から、江戸と川越を結ぶ重要な道路であった。江戸時代には、ここに練馬の宿場がおかれ、東から下宿、中宿、上宿の名で呼ばれていた。本陣や問屋場の跡はもう尋ぬべくもないが、今も残る石観音(北町2-38)や浅間神社のたたずまいのなかに遠い歴史の匂いを感ずる。下宿と仲宿の中程から富士街道が分かれる。富士山や大山石尊への参詣みちである。不動明王を彫った「これより大山道」の道しるべ(北町1-25)が建つ。(※環状8号線と旧川越街道との立体交差のため、不動明王は所有者のもとへ、道標は北町児童遊園(北町1-38-15)へ移転しました。)
大正3年開通の東上線(現東武東上線)は、17年間練馬を素通りしていた。昭和6年ようやく東武練馬駅ができると、付近に住宅が増え、商店街が発展してきた。翌7年市郡合併で板橋区になったとき、旧下練馬村の北の端だというので「練馬北町」と名付けられた。現在の町名は昭和41年旧町名を踏襲して、住居表示により実施された。
明治以来練馬の農業を支えてきた田柄用水は暗渠化され、遊歩道となった。信仰の道、富士街道は拡幅され、そこには区内初の地下鉄駅ができた。[ねりま区報 昭和59年6月11日 掲載]
田柄(たがら:ウチのメインにしている塗装会社の所在地。光が丘公園に隣接。)・・・江戸時代の田柄は、現在の田柄の約2倍の広さがあった。東は北町の自衛隊付近(下田柄)から、西は光が丘(上田柄)まで、上下(かみしも)両練馬村にまたがっていた。寛永16年(1639年)の検地帳に見られる古い地名だが、その由来は定かでない。
この辺のことを江戸の地誌『四神地名録(ししんちめいろく)』は「畑在所にて田方一分(いちぶ)ばかり、風土すぐれず広きといふのみ」といっている。わずかな田も、水利はほとんどお天気まかせ。水の涸(か)れた空(から)の田んぼがあちこちにあった。田の作柄はあまり芳しくなく、年貢の率は、よそに比べて低かった。
明治4年、干ばつに悩む村人たちは資金を出し合い、近隣の村々と協力して、玉川上水の分水を引くことに成功した。からの水田は、遠い多摩川の流れで潤った。村人たちの喜びは計り知れなかった。今も天祖神社(田柄4-27)に、その時の記念碑がある。
昭和7年、旧上練馬村の田柄地区が板橋区練馬田柄町となった。30年代からの宅地化で、田柄川は生活用排水が流され、大雨ごとにあふれ出す「やっかい堀」になってしまった。47年ごろから工事が始まり、今は暗きょ化され、見事な緑道に変身。ジョギングコースにもなっている。川の流れで洗った練馬大根を懐かしんで、その名も「練馬だいこんコース」。昭和42年、住居表示で現町名となった。[ねりま区報 昭和60年3月11日 掲載]
平和台(へいわだい:昨日御案内した秘匿滑走路の所在地。)・・・旧下練馬村の本村(ほんむら)、重現(じゅうげん)、丸久保といった。本村は、下練馬村の中でいちばん早く拓けた中心地である。村制時代はここに役場や駐在所があった(平和台3-22)。重現は重見とも書き「しげみ」と呼ぶこともあった。すぐ東の方、氷川台1・3丁目に濕化味(しっけみ)という地名がある(濕化味橋)。茂みか、湿地の意味か後考に待つ。地下鉄有楽町線平和台駅前の交差点付近を地元では今も丸久保といっている。ここは富士大山街道と高田道(地下鉄の通っている道路)が交わる交通の要衝であった。平和台4-26には多くの地名と里程を彫った道しるべの馬頭観音がある。
下練馬村は昭和4年町制を布き練馬町となった。同7年市郡合併板橋区成立のとき、練馬町は北町、仲町、南町の3つに分かれた。ここは仲町(なかまち)の一部となった。
昭和40年住居表示が実施された。「本村」という案もあったが、村のつく町名は文化練馬にふさわしくないというので現町名に決まった。[ねりま区報 昭和59年9月1日 掲載]
氷川台(ひかわだい:ほとんど気分は板橋区か豊島区って感じのところ。全国的にも有名な東京少年鑑別所、所謂”ネリカン”の所在地。)・・・旧下練馬村のうち北を田柄川、南を石神井川で区切り、両川の合流点へ半島状に張り出した台地にある。東は都立城北中央公園内で板橋区に接する。
昭和32年、公園内の旧立教大学グランドを中心に発掘が行われ、多くの住居跡や遺物が発見された。上板橋村の小字名をとって栗原遺跡と呼ばれ、現在公園内に奈良時代の住居が復元されている。数千年の昔から、ここを生活の舞台とする人びとが定住していたのである。
昭和4年、下練馬村から練馬町へ、同7年、板橋区になって練馬仲町と呼ばれた。昭和14年ごろから現在の平和台地区とともに区画整理事業が進められた。大根と麦畑の台地は、環状と放射状の道路を組み合わせた近代的な町に生まれ変わった。
昭和40年、住居表示が実施された。鎮守氷川神社(氷川台4-47)の名から、はじめ氷川町と名付けられたが、板橋区に同じ町名があるので、町をやめて台とつけた。氷川神社では桜の咲くころ、石神井川沿いのお浜井戸までの渡御(とぎょ=神輿<みこし>が出ること)と田遊びの伝統的な行事が催される。荘厳寺(氷川台3-14)、光伝寺(同3-24)も江戸初期からの歴史をもつ。[ねりま区報 昭和59年10月1日 掲載]
錦(にしき:昨日久しぶりに思い出したくらいに、練馬濃度の低いところ。同じく区内の立野町<ほぼ武蔵野市”吉祥寺”の植民地:笑泣>とともに、もっとも認知度が低いと思われます。住んでるヒト、ごめんなさい!)・・・全国に錦町という地名は多い。千代田区錦町は江戸時代一色(いっしき)家の屋敷が2軒並んでいたので俗に二色小路と呼んだのにはじまるという。また、立川市錦町は大正元年陸軍大演習の時、この地に錦の天皇旗が立ったのにちなむという。
練馬区の錦の場合は町がつかない。全国的にも珍しく、東京ではここだけである。もとこの辺は昭和のはじめまで下練馬村の今神(錦1丁目)、御殿、東本村(錦2丁目)であった。御殿にはこんないい伝えがある。
徳川5代将軍綱吉がまだ将軍になる前、脚気(かっけ)に悩んで練馬村へ転地療養した。そのときの御殿がここだというのである。また綱吉が病のつれづれに栽培させたのが練馬大根の起こりだともいう。
昭和7年板橋区の練馬北町、練馬仲町の一部となった。新住居表示で北町の名は残ったが、仲町の名は消えた。かわりに錦をはじめ平和台、氷川台、早宮などの新しい町名が生まれた。錦は御殿にあやかって豪華できらびやかな町発展の願いがこめられている。練馬の古刹(こさつ)、金乗院(錦2-4-28)と円明院(錦1-19-25)は、そうした中にいまも静かなたたずまいをみせている。[ねりま区報 昭和59年7月21日 掲載]
今日は、若干手抜き気味なのがバレバレですが、これでも二時間掛かっておりますんで、どうぞ、練馬の歴史について御興味を持って頂けますと幸甚であります。
それじゃー、また明日!・・・明日こそ”全勝優勝”だぁ!!
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