うぉ~!・・・本日は、なんとまぁ、実に朝から雪が降ると云う快挙(笑泣)が成し遂げられ、色々と予定していた段取りが「あぅあぅあぅ・・・」となって、悩ましいばかりの一日ではございました。朝からカラダ中びしょ濡れとなりましたヨ・・・。

・・・と云ったワケで、今日の天候は「雪ときどき雨のち曇り」ってなカンジの東京練馬ではありましたが、本日当ブログの表題は「はれときどきぶた」であります。
今朝も4時半に目が覚めてヨロヨロと立ち上がり、傍らのマウスにケツマヅいたら前夜にスリープしていた(らしい)パソコン画面が自動的に立ち上がりました。「あぅ~また昨日も点けっ放しで寝てたのかぁ・・・」ゴロゴロと寝ながらネットサーフィンやってると、こういうコトもよくあります(フツー、ねぇーか:笑)ね。そんなグーグル様の画像検索画面には、昨晩「懐かしい(ホニャララ)」といった検索式で出てきていた画像たちがそのまま映り出されておりました。ねむけマナコでボーっと眺めてたら、この絵本の表紙画像にある”まんまる顔の小学生”に一瞬にして魅せられてしまったのです。
ウィキ先生にさっそくお尋ねしてみました。どうも、シリーズ化されていたらしいですね。しまいには「はれときどきたこ」なんてワタシにとってはウレしいものまであるようです。デタラメに書いた未来日記が現実化すると云うところから始まるおハナシらしいのですが、空一面に浮遊する”ぶた”の絵はホントに可愛らしくファンタジックです。1980年にシリーズ第一作が上梓されたらしいんで、ワタシはすでに高校生。ソレぢゃいくらなんでも読んだコト無いワケであります。

・・・されど、なんとはなしに、題名に聞き覚えがあったのは、だいぶん以前にアニメ化テレビ放映されていたせいかもしれません。コチラの原作とは違う「ぶたさん(”はれぶた”と云う)」絵柄は、やっぱ見覚えがありますね。それよりも、さらにワタシの興味を惹いたのが、この絵本の原作者(絵・文ともに)である矢玉四郎さんと云う方の(公式?)私設サイト「矢玉四郎はれぶたのぶたごや」でありまして、今朝初めてこの方を知り、初めてサイトを訪れたにも関わらず、その一途なまでにストイックな一徹さには一撃でノックアウトされました。
まずは、幼児や児童にアナログ時計の概念を教育するために書かれた最新自著「時計がわかる本」などは、このリンク先ページだけでも、その充実度と読み物としての面白さに木戸銭払いたくなりました。時計をメーターとして捉える「時計は時間を計るメーターです」と云う視点がまず素晴らしい。今まであった様で、少なくともワタシの中にはまったく無かった視点でした。また”カルロフェラーラ”なるイタリアン企画スイスメイドの時計が中段に出てまいりますが、そのリンク先動画を幾ら眺めても、一向ワケのわからない摩訶不思議な動きには感動いたしました(こんなややこしい時計、ワタシにゃ、けっして読めないケド:笑)。続いて、長針と短針を別々の文字盤に分けた二眼時計は、この矢玉さん自らが意匠登録まで取得しているとのコト、いやはや徹底的に追求しておられます。
さらに面白かった(と云ってはならないよな気もするが)のは、”子供”と云うコトバをいつの頃からか”子ども”と表記するようになった世の中の潮流に対して、多勢に無勢の状況下で一矢報いようと長い年月に亘って闘われているページの数々です。ココに披露されているダケでも膨大な分量の読み応えと説得力あふれる文章です。こんな論争(?)があったコトすらも、ワタシの認識にはありませんでした。児童文学者としての矜持が、この一般人にとっては一見「どうでもいい・どっちでもいい(ワタシ自身、決してそうは思いませんが)」と思われる事象や風潮に向かって、とことん闘いを挑ませているのだと感じ入りました。ぜんぜんベクトルは違うかも分かりませんが、ワタシも「マセラティはマセラティと呼んでください」と云う論陣(と云うホドの事は無いなぁ:泣)を張って、19年間”孤軍奮闘(笑泣)”してまいりましたが、ソレも多勢に無勢で押し流され続け・・・なんだかすごくシンパシーを感じちゃうんですよねぇ。とにかく、読み進めていくうちに、どんどん矢玉さんの術中にハマってまいります。御興味を持たれた皆さんは、御時間のある時にジックリと読み進めてみてくださいな。大人になったらアタリマエ過ぎて忘れてた、日本語に於ける漢字表記の重要性にあらためて気付かされるコト請け合いデス。
以下、抜粋・・・
テスト 下の日本語を声に出して読みましょう
「親も子どももももが好き」「子どもはどの子もどの子も子どもらしい」「もう子どももどうもだめ」「どもる子どももどもらない子どもも子どものうちは子どもどうしで気にせず遊ぶようだ」「親子ともども子どもみたいでもどかしい」「ドコモはどこも子どもでいっぱい」「もと子の子どもももう子どもじゃない」「男子は女子どもとばかにしないでね」「この椅子もこの子の子どものころのもの」「この子どもどこの子?」
これと比べたら(ワタシ注:文章の瞬間的な判読難易度の違いが)わかる。
「親も子供も桃が好き」「子供はどの子もどの子も子供らしい」「もう子供もどうもだめ」「どもる子供もどもらない子供も子供のうちは子供どうしで・・」「親子ともども子供みたいで・・」「ドコモはどこも子供でいっぱい」「もと子の子供ももう子供じゃない」「男子は女子供と・・」「この椅子もこの子の子供のころのもの」「この子供どこの子?」
・・・抜粋終わり
そーなんですよね、ワタシもブログを書いてて何時も思うんですが、”てにおは”とか”も”とか”と”って云うのが文章の中にあると、延々とキレ目が無い場合には、一瞬にして意味を捉え難いんですよねぇ。で、気が付いてる方々もいらっしゃると思いますが、句読点の位置を色々と変えて(不自然さを感じる方もいらっしゃると思います)みたり、表記にカタカナを交ぜるなどしつつ推敲を重ねた結果、それでもどうにか読める様に心をクダいているワケです。
ワタシの実体験として、甥が小学校在学中に、その教科書を「ドレドレ~、たこおぢちゃんが教えてあげよう」などとパラパラとめくって読み進めたら、アタマがクラクラしたコトがありました。学校の教科書と云うのは、当該学年まで(あるいはその単元を習う直前まで)に既に習ってきた漢字だけで”ムリヤリ”文章が構成されているんだったな。オトナの目には、中途半端に”かな”と漢字を混在させた文章は奇異なモノとしか映りませんし、第一、そのような文章を社会に出てから書けば、「このバカたれがぁ~」とオコられてしまいます。マンガ本やライトノベルのように、一旦はオトナが読める様に漢字でセリフを書きながら、学童にとって難しい文字にはルビをふれば良いダケの様に思います。きっと、戦後世代のほとんど多くの日本人は、そうして漢字を読める様になってきたのだと思いますし。
(ハナシ戻って・・・)ああ、そうなのか。子供の”供”を嫌う風潮にはそういった(矢玉さんから見れば”誤った”)視点があったのか。そんなコトはちーとも知らずにワタシは今まで生きてまいりました。自分自身、あんまり「子ども」って書いたコトは無いよな気がしておりますが、如何でしょうか。云われてみれば確かに(ワタシの場合は直感的に)違和感を感じていたからなのだと初めて気付かされました。やっぱ、通常は”子供”。少し揶揄したり茶化したり、無機的なニュアンスを添えたい場合には”コドモ”とあえてカタカナ表記をしているように思います。錚々たるヒトビトを相手に「子どもは”子+(複数人を表す蔑称である)ども=ガキドモ”」であるから、あくまでも「子供(この場合の”供”の字には、へりくだったり蔑んだりする語感や意味が、そもそも漢字の歴史や伝来の変遷の中には無かったと思しい)」と表記すべしと主張し続け、どうやら勝利の日も近づいてきているらしい。矢玉先生(と呼ばせてください)、近々に著書を読ませて頂きます!先生のサイトだけでも、朝の30分で大いに勉強させて頂きました。翻って、「このブログってダメだよなぁ~(ひとりごと)」。
それじゃー、また明日!
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