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カテゴリー「雑学大魔王(笑)」の19件の記事

知ってても、誰にもホメられないし、何も得しない話ばかりを。

2016年4月21日 (木)

脳内グルグル!最近の極私的ヒットソングっ!!

Photo_5

 まぁーね、人生を40年も50年もやってまいりますとね、皆さん、社会的にはソレなりに重用される立場となってる場合が多かろうとも思うのですが、ワタシなどの様に「あ、ソリャもう、ぜぇ~んぜん」世間から重んじられていないタイプの人間でも、一応カンバン背負ってる立場には置かれちゃってる(って云うか、強いられてる?:泣笑)モンで、心の中では波風の立たない日常を志向しているにも関わらず、いやおうナシに”そりゅ~しょん”しなきゃならなくなったりする局面に立たされるケースに多々遭遇するワケです。世に云う「矢面に立つ」とはまさにそんな状況のコトなのでせうか。

 今朝もハヨから「大分の超おセレブで、ステーキはA5ランクしか口にしないと云いつつ、きっと、”どん”とか”宮”とか”けん”とか”いきなり!”に足しげく通っているに違いない先生」から直電を賜りまして、まぁ例によって、シゴトのハナシでもなんでもない不毛な会話をしておったワケですが、「あ、下に患者さんが来てるみたいだからイクね、ぢゃぁ~ねー」っと一方的に電話が切断。・・・と、モノの5秒後にもう一度着信音が鳴って、出てみれば「そうそう、云い忘れてたんだけど、”0655”って知ってる?きょーいくテレビ(じじいはEテレって云わない←ワタシも:笑)で朝やってるヤツ。」「(ナニをやぶからぼーに・・・)え?う、うん。知ってますよ。最近観てないケド」「あ、ホレ。ムード歌謡のさぁ・・・なんだっけ?マヒナスターズぢゃなくてロマンチカぢゃなくて・・・なんだっけかなぁ??」「(だから、いよいよナニをやぶからぼーに・・・)で、ナンなのよ、ソレが」「とにかく、今週の歌みたいなコーナーがあってさ、なんというか、いいのよ、その曲が。あの朝のハヤい時間に掛かるとなんとも云えんのヨ。えー、ナンっつったかなー・・・あ、そうそう”高円寺”だよ、”高円寺”!!」「(ググりながら)あ~コレね。ロス・プリモスだってさ」「あ、そうそうロス・プリモス。そうだよ!」

 ・・・そんなワケで、「Rたろう先生」御推薦、本日の脳内グルグルミュージック一曲目は「さらば高円寺」、それじゃあ、はぁりきって、どーぞ~!!(昭和の歌謡曲前説風に:笑)

 「さらば高円寺(音出ます、注意!)」

 で、二曲目もついでに・・・きっと続篇たる新曲の「さらば豊橋(音出ます、注意!)」

 商品化されているのかどうか知らんケド、グルグルしちゃった方はCDだかDVDだかダウンロードだかで御購入くださいね。

 で、ヒトの持ちネタ(笑)をさんざんイジり倒しましたんで、恥ずかしながらワタシも開陳で三曲目。

2016042101201604210220160421032016042104 ・・・「ノーポイッ!」って云う曲、歌うはPetit Rabbit’s、可愛いコちゃん声優の5人組。

 あ~誤解しないでくださいねー、ワタシゃ決して、けっ・し・て、いわゆるひとつの「オ・タ・ク」ぢゃあーりませんから(笑)。

 実際、ホンの一週間前までは、ワタシの脳内の片隅にもなかった曲であります。ひまつぶしの無料動画をバンダイチャンネルで物色してたら「ご注文はうさぎですか??原作公式テレビアニメ公式ウィキ」ってヘンなタイトルのアニメが出てきたモンで、興味を持って試しに観てみたら、いきなりオープニングのこの曲にヤラれたと云った次第。実際にお試し映像(音出ます、注意!)を見てみて欲しいのですが、ヨーロッパ各地にロケハンして描かれたと云う、街並みの風景の美しさにまずは癒されます。本編のストーリーにも、いわゆる”イヤなヤツ”とか”いぢめキャラ”は一切出てきません。とにかく明朗そのもので、この「ノーポイッ!」の歌詞やメロディーにもそんな世界観が凝縮されているかの様です。実はこの間の”二次会”でも歌ってしまいました(恥笑)。もはや絶版となっている”初回限定版CD(この限定版にのみスペシャルDVDも同梱)”の中古美品が定価割れ価格でアマゾンに出ていたので、ソッコーでおとといポチったら、今晩届いてました(喜)。ソレにしても(今、まさに聴きながら)歌詞は「今日という日を捨てるな、とにかく頑張ってもチョッピリしか成功しないかも知れないケド、あせらず前向きに夢を見つつ日々匍匐前進しながら皆で仲良く楽しくガンバロー」って感じでホントにワタシの心象風景の様。泣けるなぁ・・・。

 今度は”アニメよりも美しい”との噂も高い原作コミックの方も機会あらばポチってみたいと思っておりやす。

 それじゃー、また明日。

 マセラティでイッてみよう!Part2・Part3を通したすべての過去記事への一気到達用ページ(このページが便利ですので”お気に入り”にブックマークしてください)を新設いたしました。

 また、2013年3月4日以前の過去記事のみの閲覧は、「マセラティでイッてみよう!:Part2」で。

2016年3月 3日 (木)

うれしいひなまつりのトリビア

 え~、ホントに春が急激にやってきた様子となった本日の東京練馬ですが、気候が温んでまいりますと、今度は花粉関係を気にせねばならず、まったくもって住みにくい世の中ではございます。まずは、いきなりの”ぎょーむれんらく”から。「市川のT」さん、マセラティシャマルのタイベル&ウオポン&各油脂類交換など一切完了しました。今週末の納車はどぉ?ですか(願)。「名古屋のG」さんと「湯河原のN」さんの希望ナンバーと新しい車検証が、それぞれ本日無事に到来いたしましたので御報告しておきましょう。「板橋のH」さんのビアンコちゃんは本日からリフトアップを開始しております。

 ・・・で、忙しなく働いた一日を終えまして、只今ようやくアパートに帰還いたしました。今日は「耳の日」でもありますが、なんと申しましても”雛祭り”の日であります。先ほど”たこヨメ”が光が丘のスーパーにて”超ドでかいハマグリ”を値切って買ってきた(って云うか、安くしてくれたんだって)そうなので、御吸い物も作ってもらいます。これから”バラちらし”と”ポン酒”でディナーと洒落込もうと云う魂胆なのでありますが、気分を盛り上げるのに欠かせないのがBGM。ひなまつりの今宵の場合には当然の如くに「うれしいひなまつり(音出ます、注意!)」ってコトになるワケなんですが・・・。

 今日初めて知ったんですが、この人口に膾炙した童謡の作詞者である詩人のサトウハチロー先生は、生前、自らの作品であるにも関わらず、なぜかこの曲がテレビから流れると、「チャンネルを変えろぉ!」と御機嫌斜めになっていたそうです。サトウ家の中ではこの曲は「出来れば無かったコトに・・・」って感じだったらしいのですが、どうしてそんなコトになったのかと云えば、4番まであるこの曲の2番と3番の歌詞に、ひな人形業界のヒトから見ると明らかなる大きな誤謬が存在するとの由。

 「(2番の冒頭)♪おだいりさぁーまとおひなさまぁー」・・・はい、冒頭からいきなり”ブ~(笑泣)”。そもそも「内裏」と云うのは天皇のパーソナルエリアのコトを指すのだそうです。よって「お内裏様」とは、雛人形の場合、殿のみならず「殿と姫の両方」を表す言葉であるべきだと云うコトとなります。加えて「おひな様」の方も男雛と女雛の二人で一対の事を表す言葉なのだそうで、「お内裏様とお雛様」と歌うのは、同じ事を重複していることになってしまうのだそうです。正しくは「御殿様とお姫様」とすべしと識者は語ります。

 「(3番のシメフレーズ)♪あぁ~かいおかおのうだいじんー」・・・う~、このフレーズではダブルで誤謬を生み出してしまっているらしいデス。五人囃子の下の段に居るのは、そもそも”右大臣&左大臣”ではなく”随身”と呼ばれる身分の方々なのだそうで、弓矢と太刀で武装しているのがその顕れなのだとか。もしも右大臣&左大臣ならば武装の代わりに笏(しゃく)を保ち五人囃子より上段に飾るべき存在となるハズなのだそうです。さらに、左右の解釈も違うのだとか。ひな人形飾りの左右の決め方は、我々が人形に向っての右左ではなくて、(人形の)殿の方から見た右左となるのが正しいのだそうです。京都市の”左京区&右京区”なども、平安京の内裏に座る天皇が「天子南面」でまつり事を行っていたので、東が「左」・西が「右」と、われわれ通常の皮膚感覚とは反対になってるのだとか。

 ・・・きっと、天下の大詩人たるハチロー先生も、あとから真実を知っちゃったんだろなぁ。想えばハチロー先生の作詞した歌の中でも、平成の今、ソコかしこで歌われているのはコノ歌くらいだよなと思うと、地団駄踏みたくもなろうかと云うモノ。しかしながら、幼児から老人まで、この歌を歌わないと”ひなまつり”の気分が出ないワケですから、3月3日”桃の節句”の世界観を見事に活写した名曲であるとワタシは思いますケドね。ただ、「うれしいのになんで短調なの?」ってギモンは作曲の方にもありますが。まぁ、なんでもいいや。少しはお利口になったよな気もするんで、とりあえず呑も、呑も(笑)。

 それじゃー、また明日!

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2016年2月22日 (月)

少年の心を想い出そう、御同輩。

 いきなりなんですが・・・昨晩、若干の二日酔いもようやく治まり、迎え酒くらってホゲホゲしておりましたら、三男から電話が。聞けば「これから”対決!スーパーカークイズ”の当時映像が出るらしいからテレビ見れば?」との由。ソレはホントに懐かしい。見れば、テレビ東京52年分の映像大放出!!モヤモヤ映像廃棄センター▽こんなVTR新社屋に持っていけません。 (超長っ!!)って番組らしく、ちょうど前フリ&CMの真っ只中、アタフタと慣れない録画準備をしてテレビの前に珍しく正座(笑)。

 以下、公式サイトより・・・

 テレビ東京がこの秋をめどに引っ越し!しかし、新社屋はスペースが狭くなってしまうので、テープを廃棄してスペースの確保する作戦…。このままではモヤモヤ映像が失われる危機が!そこで「モヤモヤ映像廃棄委員会」を設立!廃棄リストを見直して、「これは保存したい」というモヤモヤ映像を大公開します!!
さらに、実際に廃棄された幻の番組の持ち主を大捜索!VHSをお借りして、テレ東が捨ててしまった貴重なVTRが蘇る!
【モヤモヤ映像例】
▼ガッツ石松ファミリーのアラスカ大冒険
▼府中刑務所密着24時
▼夢のコドモニヨン王国
▼第1回スカイダイビング選手権
▼さようなら釜本
▼大相撲野球大会 (他)
【廃棄復元番組】
▼対決!スーパーカークイズ←ココ
▼勝ち抜き腕相撲
▼私… (他)

 ・・・なんでも、テレ東(当時は東京12チャンネル)さんでは、この歴史遺産的珠玉番組のVTRを捨てちゃってたそーです。当時”お目付け役”として出演されていた斯界で有名な方がお持ちであった2本のVHSビデオカセットに残されていた映像は、番組内にて目出度く引き渡され、まずは同局の殿堂入りした様子でとりあえずヨカッタ、ヨカッタ!!

201602220120160222022016022203201602220420160222052016022206 ・・・「♪ボクのあこがれ、ボクのこいびと、すぅ~ぱぁ~かぁ~(らンボルぎぃーニかウンたック!・・・まっせらってぃぼぉーら、いっつなんばーワン!!:音出ます、注意!・・・しばらくガマンして聴いてると出てきます)」って云う(知らないヒト、すみませんねぇ~。この番組知ってるのって、キー局がアレだったせいで、ホントに極々限られた地域の限られた年代の方しか居ないモンで:泣笑)、この歌を久しぶりに聴いたら、なんだか沸々と純粋だったアノ頃の「すぅーぱぁーかぁー心」を取り戻し、本日もマセラティギブリⅡ前期型(名古屋のGさん号)とシャマル、そして228に特有の、”クォーター内装トリム内ウレタンフォームバフバフ病を根源的に対策”すると云った、極めて地味且つツラい(泣笑)ミッションをやり続けるコトが出来ました。モチベーションアップになったわぁ。まぁ、昭和中期の時代にとりあえずオトコのコとして生まれた以上は、「クルマ・特撮・アニメ」でしょう・・・違う?あ、アウトドア派の方やスポーツ志向の方々は、「クルマ・野球・刑事モノ」などと読み替えて頂ければ・・・あ~、同じ”文系(笑)”でも、「クルマ・鉄道・バス」とか「クルマ・ひこうき・アニメ」とか「クルマ・オートバイ・アニメ(笑)」とか、色々と異論はございましょうが、そのあたりテキトーに。でも、いずれの場合でもクルマをハズしたら”昭和の子”認定取り消しだからな(笑)。

20160222072016022208201602220920160222102016022211_22016022212_2 ・・・で、先ほどからお送りしている鍋の画像は、云うまでもなく一昨日土曜日の夜に”とある秘密基地”に於いて開催された、”鍋の会”での主役、文字通り”鍋”の様子です(笑)。なにせ年長の御奉行様が北町と南町と御二方いらっしゃいまして、特に”北町奉行”様の方は、「とにかくマロニーは15分煮てクタクタにとろけるまで」と仰るので、なかなかナベのフタをとれません(笑泣)。

 そうこうしているうちに、”(些か風変わりな)地ビール大会”にとっとと突入しておりましたので、空きッパラに何本イレちゃったコトでありましょうか。

 もう、鍋の2ロット目の製造に突入していた時分には、シラフの南町御奉行様以外の三名は完全に酩酊状態(笑)。なぜなら北町御奉行様が一升瓶を抱えて嬉しそうに我々年少組(昭和38年生まれのサンパチ組←新人類と呼ばれた世代)のオチョコに注ぎ続けるからなのです。いつでもナミナミと純米吟醸が注がれた御猪口が目の前にある。コレを至福と云わずしてなんと呼べばいいのでせう。かくて”たこちゃん”、前後不覚と相成りました(ホントに御迷惑をお掛けいたしましたぁ!ペコリ、ペコリ、ペコリっ!!!)。ああ、ガ○プラ世代の方々でも大丈夫。御覧の様に”そのスジの天上界さま”が仕切っておられますのでね。

 それじゃー、また明日。

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2016年1月26日 (火)

カリメロ、マイブーム中。なんで?

 はい、こんばんは!全国的に雪に埋もれる中(泣笑)、数少ない非積雪地域で営業している身のワタシは、ココで頑張らなければ申し訳無いとの思いを以ちまして、一日中リフトアップしたマセラティの下でダストを御掃除したり、そこかしこを磨いたり、あれやこれや塗ったりと、朝から日没まで格闘いたしました。マスクはすれども、髪の毛から、眉間の深ぁ~いシワの中、目の周辺を始めとして、身体中くまなくチッピングガード(フロア防錆用の特殊塗料)のミストを被り続けておりましたら、夕方には顔が”逆パンダ”の様に真っ黒けとなりまして、ほぼ炭坑夫然とした見た目になってたらしいです。

 ところで、真っ黒けで想い出しますのは、なぜか現在ワタシの中ダケで”マイブーム”でありますところの”カリメロ”。「♪ぴよ、ぴよ、かりめろー(音出ます、注意!)」って歌が、四六時中アタマの中でぐるぐるとしております(なんで?:笑)。とにかく、この”イタリアンなネロひよこ”は可愛い。「ママの匂いがする」と云って、自らが出てきたタマゴの殻を帽子代わりに被っております。もっとも、ワタシが小学生の頃に日本で作られ放送されていた、先の主題歌を持つアニメ版は、その明るい主題歌の曲想とはうらはらに結構救いが無いと申しましょうか、理屈っぽいと申しましょうか、特に、アタマがでかくて体が華奢、当然ケンカは弱いと云った、カリメロの見た目同様のコンプレックスを持ってた小学生時のワタシにとっては、同類相哀れむと云った同情する気分を通り越して、「なんで、そんなにヨワっちーんだよぉ~」「どーして、そーゆー誤解されるよーなコトするんだよぉ~」と、心優しくお人好しのカリメロを毎度見るたびにイライラしていたのも懐かしく想い出されます。監修に御大である山○太一先生がついておられたのですね、どーりで、”不ぞろいの○○たち”にも似た「なんだかスッキリしねぇ~よなぁー」感が横溢するワケであります。こんなんでは、原作者陣からの不評もむべなるかな。

 このカリメロ、本国イタリアでのオリジナルストーリーでは、生まれた時には白いひよこだった(おそらくコレが”第一話”:音出ます、注意!)のですね。ミラ・ランツァ(MIRA LANZA 公式サイト?)と云う洗剤メーカーの、専らAVAと云う洗濯用洗剤シリーズのキャタクターとして生まれたようです。1963年に、イタリアのCarocelloと云う、企業コマーシャル仕立てのコンテンツばかりを一気に流す番組(ホラ、サンテレビとかTVKテレビなどの地方局でよくあるローカルCMばかりを羅列する番組があるでしょ。あんな感じの番組の大掛かりなヤツなんだと思う。)内でデビューしたカリメロ君は奇しくもワタシと同い年。53年間もインターナショナルな存在感を誇示しているなんて小さいケドすごいことです。CM内でのキメ台詞は「E' un ingiustizia però」。カリメロ公式サイトに拠れば、英語バージョンでは「It's an injustice, it is!」となってますから、「あー、なんて不公平なんだぁ!(超意訳すれば、なんでボクばっかりヒドい目に・・・)」みたいなコトなんでしょう。関連動画(calimero avaとか、carosello miralanzaでググると、そのシリーズがたくさん視聴出来ます)のおおまかなストーリーは、ドレをとっても「(真面目にやってる)カリメロが、ダマされるか、誤解を受けてとりあえずヒドい目に遭う→ブツブツ呟きながらトボトボ歩く→その先には何故か”オランダ娘(コレがそもそものメーカーキャラクターらしい)”が居て、カリメロを洗濯桶か洗濯機につまみ入れる→カリメロ一瞬にして真っ白に戻って大喜び!→コマーシャル本篇の実写映像に・・・」と云った他愛の無いモノです。毎度、オランダ娘にぶつかるシークエンス直前に「E' un ingiustizia però」と云ってる様子です。そんな、世を儚む存在であったのに、今ではスッカリ陽性なキャラ付けの上、3DCGでリメイクされ、現在の本邦でも放映されているらしいカリメロ。本邦でもよく知られたイタリアンキャラクターとして、これからも頑張って欲しいモノであります。オリジナルの”プリシラ(ああ、あこがれの彼女デス)”がミョーにソフィア・ローレンに似た目を持ったイタリア女然としているところも笑えました。・・・今日のネタはからみ難そうですね(泣笑)、でも少しはイタリア語のベンキョーにもなりますヨ。なんとかネーロとか、なんとかビアンコとか、なんとかツィオーネとか、所々に聞き取れるのが、イタリア車ファンにとってはなんとも興味深いところであります。

 それじゃー、また明日!

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2015年12月 7日 (月)

”伝説を生み出すブランディング”とは如何なる手法か?

 はい、こんばんは!一昨日の”ホルモン屋で忘年会”は、どーゆーワケか皆さんの酒量が、通常の”7割増量セール実施中”となり、当然の如くに”狂乱の宴(笑)”。面白可笑しく過ごしたアッと云う間の四時間でしたが、ソコでナニをハナシてたかは皆目憶えてない(泣笑)くらいに泥酔。昨日の日曜日も朝4時起きでシゴトだと仰ってた「Hでございます」さんは、さてもさても、おツラかったコトでありましょう。「おぐ」さんと「Wさま」さんにも泥酔状態で全速力での疾走(コレもキツそーだ:泣笑)を強いてしまいましたし、ホント皆々様方には御苦労をお掛けいたしました。ワタシ?昨日曜日は、強度の老眼となってから、スッカリ普段読まなくなった”活字”と一生懸命にニラメッコをしておりましたヨ。

201512070120151207022015120703201512070420151207052015120706 ・・・その”活字”の正体がこの御本。

 なにしろ、今どき300ページ超え、コチラも”ホッピー中ダケ”に負けず劣らずの”大増量セール実施中”な分量ですから、本来、現在のワタシの実力に於きまして、老眼鏡片手ではとてもとても一日での読破はムリなのですが、なぜか昨日は”忘年会”でのスッキリ効果のおかげか、メガネ無しで(両腕は突っ張ってるケド:笑泣)なんとか最後まで読み終えるコトが叶いました。ひょっとすると、この本の主たる需要層を考慮して、ワタシの様な老眼ジジイにも読み易くするための配慮が活字の書体や装丁に凝らされているのかも知れません。

 実は、一昨日の土曜日に、タッキュービンが届きまして、まずは差出人のお名前を見て「!!」。あの”カーヒストリアン”として名高く、各方面で絶賛御活躍中であり、マセラティ・クラブ・オブ・ジャパン会長を長きに亘って務められている”エッコさん”御自身からのモノではあーりませんか。エッコさんは、ワタシが「こうなってしまった(泣笑)」遠因を作った張本人のおひとりでもありますから、ここはヒト肌もフタ肌も脱ごうと云うモノ。

 「フェラーリ・ランボルギーニ・マセラティ 伝説を生み出すブランディング(著者:越湖信一 株式会社KADOKAWA刊 定価2300円+税)」と云うのが頂いた御本の表題ですが、もう、いきなり題名が長いデス(笑)。而して、ワタシが更なる副題を添え得るならば、「コレこそが”スーパーカーのココロ”だぁー(今は亡き小沢昭一先生風に叫んでください:笑)」とでもいたしますか。なにしろ、その”エッセンス”を抽出し抜いた著作であります。

 トビラを開けば、ランボルギーニカウンタックの手描き透視図。裏表紙をめくれば同様にマセラティブーメランのが出てきて、些かならず得した気分となりました。懐かしいツッパリ君たちが着こなしていた”変形ガクラン”の如く、裏地にイイ仕事がしてありますな。いきなり黒ビキニのちゃんねーがブーメランのフロントフードに乗っかってたり、赤ビキニの方は512ピニンファリーナモデューロ(あの「Hでございます」さんがワンオフでスクラッチビルドしたヤツのモノホンがコレだぁ)の前で不遜にも仁王立ちしていると云う、いかにも70年代的な”パンチの効いた(笑)”口絵ページのトビラがまずはステキ過ぎます。

 なにしろ、この圧倒的な分量ですから、初めから通して読むのは些かツラそうな予感がありましたんで、まずはイントロダクションを熟読し、次に目次の章立てから推して「(あくまでワタシ的に)興味の持てそうな章」を探し出し、まずはソコから攻めてみようと思いました。のっけから、イントロ部分P13の最後の五行、「”溜飲を下げる”などというフレーズをはじめとした難易度の高い漢字を覚えたのは某自動車雑誌からであったし、」ってトコロがいきなり刺さりました。ワタシは中学一年生の頃に古本屋で1960年代のカー○ラフィック誌を片っ端から買い漁り、幾度となく読み倒しましたので、今は亡き小林彰太郎翁がまだ壮年期に差し掛かる頃の”文学的表現による心躍るインプレ”や、同じく若き日の高島鎮雄先生や山口京一先生のライブ感溢れる海外レポートには本当に胸をときめかせていたモノです。ムカシの日本に於ける”カーヒストリアン”と云えば忘れられないのが五十嵐平達先生ですが、いかんせん当時の情報量の少なさと、伝達スピードの遅さの中では、海外の自動車史を纏め上げるのは至難であったと推測されます。

 そこで、そのような”自動車史の中に於ける、イタリアンエキゾチック(カー)”をどこまで掘り下げて記述されているかが、平成の御代に於いて新たに上梓されたこの御本に期待されるところです。不肖、ワタシが305ページにも及ぶ”イタリアンスーパーカーの海”を泳いでみたところでは、次のような感想を得ました。

 ①:「第一章 誰も知らないスーパーカーの真実」は、ワタシが十数年も以前に書いた当店公式サイトの”マセラティ擁護のコーナー”を始めとする自虐ネタ(ソレはあくまで零細製造業を出自とするワタシの皮膚感覚ダケで記述していました:笑泣)の数々を、生きた自動車史を背景にしつつ初めて学術的に裏付けてもらえた様な気がしたコト。イタリアの田舎で作ってる中小企業のシゴトである・量産しない(出来ない)し、よって品質には大きくバラつきがある・ハヤそうなカタチはしているが、決してハヤくはない・・・などなどは、シンパシーを感じまくり。コレをワタシなりに補足いたしますと、やっぱ往年(1960年代・70年代)のカ○グラをコドモの頃から読み込んでいれば、イタリアンエキゾチックカーメーカーのシゴトがロクな事になってないのは(特に当時に於いては)”御約束”以外の何物でもなく、今様に云えば”デフォルト”なのであるコトは日本語が読めるならばハラの底から理解出来ると云うモノです。特に、1967年くらいから1973年いっぱいくらいのカーグ○は、往年のイタリアンエキゾチックカーの真実について理解したい場合には当たり前の様にマストな読み物だったのですが、ソレの読破を達成するには根気よく神田あたりの古本屋巡りを続けるか、三日間くらいは大手町ビルヂングの自動車図書館に入り浸る必要がありました。翻って、この御本の第一章に於いては、ただの10ページで”そのスーパーカーのココロ”が一発理解出来る様に煮詰められ収斂されきってます。コレはスゴイ事です。ちなみに、CG誌はスーパーカーブーム時に於いて、”(子どもを含めた)俄かサン”を蛇蝎の様に嫌い、イタリアンエキゾチックカーからは大きく距離を置いた編集方針を貫いてしまった(コレは日本自動車雑誌史に於いての大いなる誤謬)ゆえに、正しい”日本のスーパーカーブーム”がキチンとしたカタチで伝えられなくなってしまいました。コレが現在に至るまで、現実に”あれだけのブーム”があったと云う世界的に見て特殊且つシアワセな状態がありながら、本邦に於いて本物の倶楽部的で”粋”なクルマ道楽が今もなお根付いていない原因の大半を占めるとワタシは思っています。この罪深き(笑)カー○ラ誌に対しまして、云わば小林翁の古巣でもあったモーターマガジン社ではモーターマガジン誌及びホリデーオート誌にて大々的に”日本のスーパーカーブーム”を1975年後半~1978年前半まで取り上げまくっておりましたので、御興味のある御仁は古本屋さんで手に入れてみると面白いでしょう。特に、スーパーカーブーマーで無かった前後世代の方々にはお奨めいたします(その当時ならではの”ライブ感覚溢れる歪みっぷり”をこそ御堪能頂きたいのです:笑)。あえて名を秘すケド、当時スーパーカーねたのメインライターで元レーサーだったと云う某氏はあからさまにフェラーリ&ピニンファリーナ贔屓である上、”(エキゾチック)スーパーカーのココロ”が理解出来てないから、いつもランボルギーニをクソミソに書く。当時ランボルギーニ&ベルトーネ軍団贔屓であったワタシには、なにしろ毎号ソレが癪に障ってねぇ~。他の凡百=チマタに溢れる量産車と同じ俎上に載っけて、イタリアンエキゾチックを論じるのが如何にバカバカしいかは中学生にも理解出来たのに、浅いなぁ、ホント。本邦に於いて、月形半平太の”小粋”なココロ(「春雨ぢゃ、濡れてまいろう」)は、遠く幕末の段階で潰えてしまったらしい。”イタリアンエキゾチックカー”と”独逸的完全無欠主義”の中間(ちゅうげん)に”江戸前の粋”があるとワタシは常々愚考しております。

 ・・・閑話休題。ついついスーパーカーブームの頃のハナシを書かせるとワタシはメンドくさいヤツに。

 ②:各章の随所に出てくる「スーパーカー人(びと)」と云うコトバから、筆者から絶え間なく発せられる”愛のメッセージ”を感じさせられた。

 ③:出版ビジネスに於ける”当然のオトナの事情(笑)”を最大限に斟酌しつつ、そのギリギリのところをキープして「分かるヒトには分かる(と云うか、分かるヒトにしか分からない:笑)」メッセージ(真意)を発信している。だからワタシはそこかしこでニヤリと、する(笑)。

 ④:ワタシの様な生半可通が、従来”点”としてしか持ち得なかった情報を、現在考え得る最強の”スーパーカー人(びと)人脈”への綿密な取材によって”線”とし、”面”としてくれている。

 ⑤:(コレは、おそらく③に関連した限界なのだけど)自動車史の一面を切り取った書物なのかビジネス書なのか、おそらくは意識的に判然としない様な筆致で描かれ抜いている。最大公約数の読者を得るには、いたし方ないとは思う。

 ⑥:P221~P222の記述に於ける、「”ディエゴ・デ・シュテーリッヒ=アーリプランティ侯爵がオルシ期以前の草創期に於いて、マセラティ社の経済的な後ろ盾であった」と云う史実や、P225あたりからの”ボロ布集めから立身出世!アドルフォ・オルシの手でマセラティは蘇った”とか”アドルフォ・オルシの作りたかった4ドアスーパーカー(あらゆる世代の”クアトロポルテ乗りは”全員読むベシ←イタリア語で、ただ”4ドア”とネーミングされているウラには、これっくらいの深さがあるんだと云ったところをよくよく御吟味頂きたい)”などの項目は、特筆すべきだと思った。

 ⑦:(コレは日本人であり、ニホンゴしか解さないワタシにとってヒジョーに重要なコトだが)この素晴らしい内容が全文日本語で読めると云うコト。このコト自体が、実は本邦に於いて相当に画期的な”事件”なのです。

 ⑧:口当たりのいいコトばかり云わずに、あえて一読者としてのワタシが(専ら独善的に)”毒”を吐くならば、「パニーニとマクラーレンと現行ブガッティに関する記述は要らない」。なんとなればワタシの人生史にまったく無関係だから(笑)。むしろアストンマーティンとロータスにはもっと甘くしても良かったのではなかろうかと。但し、イタリアンエキゾチックカーの周辺事情を整理する意味では、この本の特性上はいた仕方ないのかも知れない。

 ⑨:巻末の”スーパーカー用語集”はまったく物足りないんで、この御本の”格”に似つかわしくない(エッコさん、ゴメンなさい!)。って云うか、ホントに筆者自身がモノしたのかすらも疑わしいゾ。・・・あ、あくまで私見ですからね。

 ⑩:とりあえず、ウチの顧客様や当ブログのヘビーユーザーには、必携の書であると思う。また、ビギナーにもエキスパートにもそれなり以上の読後感を齎すのは間違いないと思う。特に、P262からの”マセラティでスーパーカーを作った唯一の日本人メカニック”伊藤義敦氏に関するコラムは、この2ページだけでも”買い”。

 とにかく、まずはワタシなどの書く駄文とは趣の異なる文体の格調高さに酔い痴れてください!本当にクルマの好きなヒトが何度も読み返せば、スグに近年のランボルギーニかビトルボ期マセラティが(なぜか)欲しくなるコト請け合います(のココロが幾人分かるかなぁ:笑泣)。さぁ、とりあえずアマゾンツタヤにGOだ!!

 最後にエッコさん、本日はホント失礼しました(怒らないでね←今度は御本自体にサインをください・・・っつーか、一度ワタシと本格的に”呑みま専科”?、ホルモンで:笑)。イタリアンエキゾチックの”亜流(泣笑)”に、文字通り、身も心も人生も捧げたオトコの生き様に免じて、そっと許してくださいましな。

 それじゃ、また明日。

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2015年9月19日 (土)

9月の御言葉

 はい、こんばんは!あー、世間では今日からシルバーウイークであるとか、”アンポほーあん”がどーのこーのとか、やたらと喧しいですが、ワタシんところは”淡々と大車輪(笑)”。本日は一台の御売約(千葉市のKさん、本当に有難うございました。お隣の街ですから、一度は”ダメ男の集い”にもどうぞ:笑)を賜り、一台を納車(文京区のTさん、15年越しでの”マセラティのオカワリ”、有難うゴザイマシタ!お気をつけてお楽しみください。)に漕ぎ着けました。まま、順風な土曜日であったと心から感謝いたしております。

2015091901201509190220150919032015091904 ・・・とは申しましても、朝から昨晩までの続き、マセラティクアトロポルテⅣV6エボルツィオーネのドア内ハーネス導入部分の大改造&全とっかえ(33本のハーネスを切断して、33×4の皮膜剥きをしつつ配線を延長し、新鮮なコードを屈曲部分内部に忍ばせる様に配置すると云う根源的対策:詳細はまた今度:笑泣)作業に従事しつつ、商談をしつつ、と云った感じで、いつものようにてんでスマートぢゃ無い一日ではありましたケドね。

 ところで本日のお題は、本居宣長さんの御言葉ですが、ワタシなど浅学非才の者にありましては、ちょっとそのままで含意を読み取るのは難しいですね。そもそも、”たなつもの”って何?(笑)ってトコから始まっちゃいます。・・・なんとか要旨を汲み取れば「万物の皆さん、お日様に感謝いたしましょう!」ってところかなぁ。想えば、このお盆が明けてからの期間は、本当にお日様が顔をお出しになる日が少なかったんで、つくづく身に沁みる御言葉ではあります。そうかと云って、日照り続きでもコレまた困る。とにかく、宇宙(とか地球上)の神秘と云うモノは、古来より現在にいたるまで、小さなニンゲンから見ればあまりに大きな出来事で、ちょっと想像を絶します。「あー、今日は好天で、ホントに作業が捗ったな!シゴトの後でのビールはウマいし。」なんて調子で、ワタシはとにかく当たり前の(様でいて、決して”アタリマエ”では無い)コトに一々感謝の気持ちで一杯になるんです。ドナタ様に感謝すればいいのか分かりませんが、ワタシたちを喰わせてくれている顧客様方にはもちろんの事、目には見えざる人智を超えた何か偉大なる力の様なモノにも「有難うございます」と毎日心の中で念じる様にしております。土台このトシになって、日々タバコも酒もブーブーとヤッてるにも関わらず、どうにか健康体を維持出来ている事自体が有難い事で、アタリマエと思っちゃイケない様に思っておりますヨ。

 それじゃ、また来週!今週も”やっぱり”有難うございましたぁ!!

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2015年4月 8日 (水)

はれときどきぶた

 うぉ~!・・・本日は、なんとまぁ、実に朝から雪が降ると云う快挙(笑泣)が成し遂げられ、色々と予定していた段取りが「あぅあぅあぅ・・・」となって、悩ましいばかりの一日ではございました。朝からカラダ中びしょ濡れとなりましたヨ・・・。

2015040801_32015040802_4 ・・・と云ったワケで、今日の天候は「雪ときどき雨のち曇り」ってなカンジの東京練馬ではありましたが、本日当ブログの表題は「はれときどきぶた」であります。

 今朝も4時半に目が覚めてヨロヨロと立ち上がり、傍らのマウスにケツマヅいたら前夜にスリープしていた(らしい)パソコン画面が自動的に立ち上がりました。「あぅ~また昨日も点けっ放しで寝てたのかぁ・・・」ゴロゴロと寝ながらネットサーフィンやってると、こういうコトもよくあります(フツー、ねぇーか:笑)ね。そんなグーグル様の画像検索画面には、昨晩「懐かしい(ホニャララ)」といった検索式で出てきていた画像たちがそのまま映り出されておりました。ねむけマナコでボーっと眺めてたら、この絵本の表紙画像にある”まんまる顔の小学生”に一瞬にして魅せられてしまったのです。

 ウィキ先生にさっそくお尋ねしてみました。どうも、シリーズ化されていたらしいですね。しまいには「はれときどきたこ」なんてワタシにとってはウレしいものまであるようです。デタラメに書いた未来日記が現実化すると云うところから始まるおハナシらしいのですが、空一面に浮遊する”ぶた”の絵はホントに可愛らしくファンタジックです。1980年にシリーズ第一作が上梓されたらしいんで、ワタシはすでに高校生。ソレぢゃいくらなんでも読んだコト無いワケであります。

2015040803_22015040804_2 ・・・されど、なんとはなしに、題名に聞き覚えがあったのは、だいぶん以前にアニメ化テレビ放映されていたせいかもしれません。コチラの原作とは違う「ぶたさん(”はれぶた”と云う)」絵柄は、やっぱ見覚えがありますね。それよりも、さらにワタシの興味を惹いたのが、この絵本の原作者(絵・文ともに)である矢玉四郎さんと云う方の(公式?)私設サイト矢玉四郎はれぶたぶたごや」でありまして、今朝初めてこの方を知り、初めてサイトを訪れたにも関わらず、その一途なまでにストイックな一徹さには一撃でノックアウトされました。

 まずは、幼児や児童にアナログ時計の概念を教育するために書かれた最新自著「時計がわかる本」などは、このリンク先ページだけでも、その充実度と読み物としての面白さに木戸銭払いたくなりました。時計をメーターとして捉える「時計は時間を計るメーターです」と云う視点がまず素晴らしい。今まであった様で、少なくともワタシの中にはまったく無かった視点でした。また”カルロフェラーラ”なるイタリアン企画スイスメイドの時計が中段に出てまいりますが、そのリンク先動画を幾ら眺めても、一向ワケのわからない摩訶不思議な動きには感動いたしました(こんなややこしい時計、ワタシにゃ、けっして読めないケド:笑)。続いて、長針と短針を別々の文字盤に分けた二眼時計は、この矢玉さん自らが意匠登録まで取得しているとのコト、いやはや徹底的に追求しておられます。

 さらに面白かった(と云ってはならないよな気もするが)のは、”子供”と云うコトバをいつの頃からか”子ども”と表記するようになった世の中の潮流に対して、多勢に無勢の状況下で一矢報いようと長い年月に亘って闘われているページの数々です。ココに披露されているダケでも膨大な分量の読み応えと説得力あふれる文章です。こんな論争(?)があったコトすらも、ワタシの認識にはありませんでした。児童文学者としての矜持が、この一般人にとっては一見「どうでもいい・どっちでもいい(ワタシ自身、決してそうは思いませんが)」と思われる事象や風潮に向かって、とことん闘いを挑ませているのだと感じ入りました。ぜんぜんベクトルは違うかも分かりませんが、ワタシも「マセラティはマセラティと呼んでください」と云う論陣(と云うホドの事は無いなぁ:泣)を張って、19年間”孤軍奮闘(笑泣)”してまいりましたが、ソレも多勢に無勢で押し流され続け・・・なんだかすごくシンパシーを感じちゃうんですよねぇ。とにかく、読み進めていくうちに、どんどん矢玉さんの術中にハマってまいります。御興味を持たれた皆さんは、御時間のある時にジックリと読み進めてみてくださいな。大人になったらアタリマエ過ぎて忘れてた、日本語に於ける漢字表記の重要性にあらためて気付かされるコト請け合いデス。

以下、抜粋・・・

テスト 下の日本語を声に出して読みましょう
「親も子どももももが好き」「子どもはどの子もどの子も子どもらしい」「もう子どももどうもだめ」「どもる子どももどもらない子どもも子どものうちは子どもどうしで気にせず遊ぶようだ」「親子ともども子どもみたいでもどかしい」「ドコモはどこも子どもでいっぱい」「もと子の子どもももう子どもじゃない」「男子は女子どもとばかにしないでね」「この椅子もこの子の子どものころのもの」「この子どもどこの子?」
これと比べたら(ワタシ注:文章の瞬間的な判読難易度の違いが)わかる。
「親も子供も桃が好き」「子供はどの子もどの子も子供らしい」「もう子供もどうもだめ」「どもる子供もどもらない子供も子供のうちは子供どうしで・・」「親子ともども子供みたいで・・」「ドコモはどこも子供でいっぱい」「もと子の子供ももう子供じゃない」「男子は女子供と・・」「この椅子もこの子の子供のころのもの」「この子供どこの子?」

・・・抜粋終わり

 そーなんですよね、ワタシもブログを書いてて何時も思うんですが、”てにおは”とか”も”とか”と”って云うのが文章の中にあると、延々とキレ目が無い場合には、一瞬にして意味を捉え難いんですよねぇ。で、気が付いてる方々もいらっしゃると思いますが、句読点の位置を色々と変えて(不自然さを感じる方もいらっしゃると思います)みたり、表記にカタカナを交ぜるなどしつつ推敲を重ねた結果、それでもどうにか読める様に心をクダいているワケです。

 ワタシの実体験として、甥が小学校在学中に、その教科書を「ドレドレ~、たこおぢちゃんが教えてあげよう」などとパラパラとめくって読み進めたら、アタマがクラクラしたコトがありました。学校の教科書と云うのは、当該学年まで(あるいはその単元を習う直前まで)に既に習ってきた漢字だけで”ムリヤリ”文章が構成されているんだったな。オトナの目には、中途半端に”かな”と漢字を混在させた文章は奇異なモノとしか映りませんし、第一、そのような文章を社会に出てから書けば、「このバカたれがぁ~」とオコられてしまいます。マンガ本やライトノベルのように、一旦はオトナが読める様に漢字でセリフを書きながら、学童にとって難しい文字にはルビをふれば良いダケの様に思います。きっと、戦後世代のほとんど多くの日本人は、そうして漢字を読める様になってきたのだと思いますし。

 (ハナシ戻って・・・)ああ、そうなのか。子供の”供”を嫌う風潮にはそういった(矢玉さんから見れば”誤った”)視点があったのか。そんなコトはちーとも知らずにワタシは今まで生きてまいりました。自分自身、あんまり「子ども」って書いたコトは無いよな気がしておりますが、如何でしょうか。云われてみれば確かに(ワタシの場合は直感的に)違和感を感じていたからなのだと初めて気付かされました。やっぱ、通常は”子供”。少し揶揄したり茶化したり、無機的なニュアンスを添えたい場合には”コドモ”とあえてカタカナ表記をしているように思います。錚々たるヒトビトを相手に「子どもは”子+(複数人を表す蔑称である)ども=ガキドモ”」であるから、あくまでも「子供(この場合の”供”の字には、へりくだったり蔑んだりする語感や意味が、そもそも漢字の歴史や伝来の変遷の中には無かったと思しい)」と表記すべしと主張し続け、どうやら勝利の日も近づいてきているらしい。矢玉先生(と呼ばせてください)、近々に著書を読ませて頂きます!先生のサイトだけでも、朝の30分で大いに勉強させて頂きました。翻って、「このブログってダメだよなぁ~(ひとりごと)」。

 それじゃー、また明日!

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2015年3月 7日 (土)

イタリアンな童謡(?)アレコレ

 はい、こんばんは!ひょ~、本日はお寒ぅございましたぁ!久しぶりの”日中ヒト桁℃”はコタえましたね。そんな寒さも吹きトバす勢いで、マイクロ・デポから徒歩10秒の”ホルモン屋”では、只今まさに宴もたけなわでございます(御参加の叶わなかった方々、ホントにスミマセン:笑泣)が、土曜日でもありますので、当ブログ読者様方にも肩のチカラがヌケヌケになるよな懐かしネタをお送りいたしましょう。

20150307012015030702 ・・・皆さんはイタリアの子供向け音楽祭”ゼッキーノ・ドーロ”と云うのを御存知でありましょうか・・・ちょっと唐突でしたね(笑)。

 いや、実は3日ほど前の晩に、オヤスミ前の”ナイトキャップ・ネットサーフィン(造語:笑)”をしておりましたところ、ひょんなところで、懐かしの幼児向け番組「ピンポンパン」に出ていた”酒井ゆきえおねーさん”の当時物動画に出くわしてしまい、「いやいや、オレの中では世代的に”石毛恭子おねーさん”だろ」と云うコトになって、その筋(笑)をアレコレと追っかけておりましたら、「あー、”ニッキニャッキ”って歌、あった、あった!懐かしぃーなぁー」と・・・アレ?その関連動画には、あろうコトか”チンチンポンポン”までを発見。この2曲の懐かしい新作童謡(当時)はワタシを一気に小学校四年生の時分へとタイムスリップさせてくれました。その当時、ものすごく仲がよかった”K海君”の家に毎日上がりこんでは、てんとう虫型のレコードプレーヤー(コロンビアの・・・確か”ドレミファドン”に出ると参加賞みたいに貰えたヤツ:笑)にこのレコードたちをエンドレスで掛けつつ”天才バカボン”を読み耽っていたモノです。

 で、当時のワタシをあれほどまでに魅了した2曲からは、(その歌詞の内容はともかくとして:笑)どう聞いても”異国のカホリ”を感じ取らずには居られません。調べていったら色々と出てきたんですよ、冒頭の”ゼッキーノ・ドーロ”なるイタリアン新作童謡コンテストのハナシが。しかも毎年、マセラティ創業の地ボローニャで行われていると云う・・・こりゃ、ワタシが惹かれるのも、むべなるかなでありますね。

 冒頭の画像は”ニッキニャッキ”のレコードジャケットと云うよりも、世間一般では”黒ネコのタンゴ”のソレとして認知されているモノですが、なにせ1970年代の初頭に260万枚も売れちゃった童謡ですから我々世代に知らぬ者は居ないくらいの有名曲ですよね。ですから、”黒ネコ”につられて”ニッキ”の方も、それなりに(ついでながら)聞かれていたと思われます。ワタシの中では、自分が所有していたレコードではありませんでしたので、”チンチンポンポン”こそ”黒ネコ(ぶっちゃけ、コレはあんまり好みでなかった)”のB面であったモノと長らく勘違いしておりました。そして、このたび判明したのが、コレ全部”イタリア製”の新作童謡で、件の”ゼッキーノ・ドーロ”で入賞した曲たちであったと云う事実でありました、今さらながら(笑)。

 以下リスト、リンク先はすべて音が出ます、注意!

黒ねこのタンゴ→Volevo un Gatto Nero(黒いネコがほしかった 1969年:第11回)

ニッキニャッキNicchi Sgnacchi Mucchi Mucchi(1969年:第11回)

チンチンポンポンCin Cin Pon Pon(1972年:第14回)

 で、原詩も訳詩も諸々著作権関係がややこしいので、御興味のある方々(居ねぇーか:笑)には独自にネット徘徊をして頂くコトとして、情報を総合いたしますと、”黒ネコ”は「黒いネコ」が出てくる以外はほとんど原型を留めていないらしく、”ニッキニャッキ”は、日本版では食べ物の好き嫌いをモチーフとした歌ですが、原詩との整合性や関連度は不明(イタ語が解読不能なため:泣笑)。”Cin Cin Pon Pon”とはイタリアで「しゅっしゅっぽっぽ」の意味らしく、”小さな汽車が行けば、ソレを見送る小ヒツジが「めぇ~」”みたいな雰囲気の品行方正かつ明朗なモノです。皆さんがご存知の和訳(と云うか改作)詩の「Rたろう先生的な含意(笑)」はツユほども無いところを強調しておきたいと思います。「Rたろう先生」にはくれぐれも”放送禁止コメント”を送らないようにお願いしておきましょう。コチラが呑んでると思って「そのスキに」とんでもないモノを送って寄こさぬように、みんなでチェックしてますからね。もっとも、土曜日の晩ですから、”都町でウヒウヒ気分(ホドホドに:笑)”の境遇にあるやも知れませんケド。

 それじゃー、また来週!皆さんも土曜日の夜をお楽しみくださいませ。

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 また、2013年3月4日以前の過去記事のみの閲覧は、「マセラティでイッてみよう!:Part2」で。

 このブログを読んで、マセラティを初めとするイタリア旧車の世界に足を踏み入れたくなってしまったアナタ(あんまりいない様な気がするケド:笑)は、マイクロ・デポ株式会社の公式ホームページ「マセラティに乗りませんか・・・」の方ものぞいて見てくださいね。さらにディープなネタ、やってます。

2014年12月12日 (金)

練馬の旧い地名、アレコレ

 はい、こんばんは!本日はとりあえず全勝は逃したものの、14勝1敗で迎える千秋楽って感じの一日でした。よかった、ヨカッタ!天気は相変わらずピリっとしないし、寒いよなァ~。

 ところで、昨日のコメント欄を拝見しておりましたら、「テツヲタ」さんが”コアな練馬バナシ”に言及していたんで、なぜか”練馬LOVE”なワタシも郷土愛を奮い起しまして、このようなネタを仕込んでしまいました。

 練馬区の公式サイトは結構充実の内容でありまして、区内各地の古写真を見るコトも出来ますし、町名変更に伴っていまや聞くコトも出来なくなった旧い地名について解説したコーナーもございます。以下はそこからの抜粋ですが、ここに挙げる町名は、ワタシが子供の頃から慣れ親しんだ練馬区北東地域(練馬区のオリジンたる東京都板橋区や埼玉県和光市に隣接した地域)に限っての記述です。「おぐ」さん、「練馬のH」さん、「練馬のU」さん、「練馬のT」さん、皆さん同じ練馬区民(他地域)を長らくやってらした方々ですが、本日は出てきませんのでごめんなさい。「町内会のM」さんや「テツヲタ」さんにはズッポシです。練馬にまったく関係の無いほとんどの読者方には興味の持ち様が無い内容なんで、ホントに申し訳ございません(ペコリ!)

 それじゃーイッてみよー!

 春日町(かすがちょう:世界的に有名な”練馬大根”の総本山的地域。ワタシが二才の時から成人するまで住んでたところ。通ってた小中学校の所在地もココ。そして10年前までマイクロ・デポの本社があった場所。現在も実家跡地がマイクロ・デポのストックヤード兼大部品倉庫と化しており、他にも町内にはヤードが点在しておりますので、ワタシとは切っても切れないところです。)・・・飛ぶ鳥のアスカ、春の日のカスガと大和の地名は優しく、雅(みやび)やかだが、語源はいまひとつはっきりしない。ここ春日町の名の起こりは、旧村社春日神社(春日町3-2)に由来する。昭和7年、市郡合併で板橋区が成立、それまで上練馬村の中ノ宮、海老ケ谷戸、尾崎といっていた所が春日町1、2丁目となった。
 春日神社は鎌倉時代、工藤祐経の孫、祐宗が頼朝に従って奥州征伐に向かう途中、自分の先祖藤原氏の氏神である大和の春日神社の祭神をここに勧請(かんじょう)して、戦勝を祈願したのにはじまるという。その後、練馬城(今の豊島園)の城主豊島泰経も一族の守護神として当社を深く崇敬した。豊島氏没落後、あとの城主海老名左近はここを居館の一部とした。小字海老ケ谷戸は海老名氏ゆかりの地名だという。
 神社は江戸時代、十羅刹女(じゅうらせつにょ)社と呼んでいたが、明治の神仏分離で、十羅刹女社は隣の寿福寺(同3-2)へ、祭神は春日神社として祭られた。
 愛染院(同4-17)前の交差点付近を中ノ宮という。江戸時代には近くに名主役宅や高札場、郷蔵(ごうくら)などがあって村の中心だった。明治になってから、そこに村役場や小学校、登記所ができた。
 春日小学校(同5-12)建設に伴って古代遺跡が発見され、練馬の歴史にとって貴重な資料が数多く出土した。遺跡は地名をとって尾崎遺跡と呼ばれている。昭和42年、住居表示が実施された。[ねりま区報 昭和60年6月1日 掲載]

 早宮(はやみや:区立小学校や中学校の学区域の関係で常に春日町とセットとなっているところ。特に早宮四丁目は隣接しているので関連性が高い。)・・・江戸時代は下練馬村の早淵(はやぶち)と、宮ケ谷戸(みやがいと)といった。二つの字(あざ)の1字ずつをとって今の町名にした。淵は澪(みお)のことで、川の底が深く、舟が通りやすいところをいう。石神井川の大橋辺から高稲荷下にかけては、両岸がせり出し、川は瀬となって水の流れが早かった。その付近の左岸(早宮1、3丁目)を昔から早淵前といっていた。
 明治になって江戸時代の早淵は東早淵、西早淵、北早淵などに、宮ケ谷戸は北宮、中宮、南宮などの小字に分割された。明治22年町村制施行後は、これからの分割地名が公称となった。
 ここは昭和4年練馬町を経て、同7年板橋区練馬仲町(4~6丁目)となった。昭和40年新たに住居表示が実施されることになった。地元では明治15年(1882年)開校の開進第一小の学校名をとって、町名を「開進」とする案が有力だった。しかし、開進の名は小・中学校おのおの第一から第四まで8校があちこちの地域にあった。だから特定の町名には、ふさわしくないということで早宮に決まった。
 練馬区内の現町名のうち、旧地名の合成はこの早宮だけである。合成地名は歴史的に古いものの、最近は旧地名の尊重と否定の妥協の結果だとして、地名本来の純潔をあやぶむ声もある。[ねりま区報 昭和59年11月1日 掲載]

 旭町(あさひちょう:云わずと知れた、現在マイクロ・デポの本店所在地。旧いマセラティの日本に於ける総本山だったり、メッカだったりするところ。町内面積当たりのマセラティ生息数は世界一・二を争うかも。当然「町内会のM」さんも2台のマセラティとともにお住まいです。:笑)・・・昔は土支田村(どしだむら)といった。江戸時代の土支田村は今の旭町、土支田、東大泉の全部と、光が丘、三原台の一部を含む大村であった。村は幅1km余、全長約6km、上組と下組に分かれていた。ここは下組であった。明治になって、上・下両組は別々の村となった。今の旭町と土支田は下土支田村に、東大泉は上土支田村になった(土支田村のことは別のところでふれる)。
 明治22年町村制が布かれ、下土支田村は上練馬村に併合、上練馬村大字土支田と呼ばれ、昭和7年板橋区成立のとき練馬土支田町1丁目となった(2丁目は今の土支田)。
 昭和22年8月板橋区から練馬区が独立した。それまで練馬何町、石神井何町といっていた練馬・石神井の冠称を、昭和24年1月1日を期してとることになった。土支田1丁目ではその際、町会有志を中心に町名変更が発議された。土支田1丁目では字数が多いし、土(どろ)くさい。希望のもてる明るい簡単な町名がよい。ということで旭町に一決したそうである。以来昭和43年、住居表示にもそのまま旭町が踏襲された。
 町内には江戸時代からの歴史をもつ妙安寺(旭町3-10)、本覚寺(旭町1-26)、昭和36年田端から移った仲台寺(旭町1-20)がある。[ねりま区報 昭和59年11月11日 掲載]

 土支田(どしだ:現在ワタシとたこヨメが通常潜伏している仮住居のある場所。ちなみにパ○ンコ屋は”出ない”。:泣笑)・・・昭和50年、住居表示で土支田1~4丁目となった。それ以前、昭和7年、板橋区のときは練馬土支田町2丁目といった。練馬区が独立して町名から練馬や石神井の冠称をとる際、土支田1丁目は旭町に町名を変更した。1丁目のなくなった2丁目は、ただの土支田町となった。昭和24年のことである。
 土支田は土師田すなわち土師(はじ)器を作る人たちが住んでいた所という説がある。白子川流域には土師器の遺跡が多いし、遠くない貫井からは土師器を焼いた窯場跡が発見されている。また、土支田の支はキと読むのが正しく、斎田(ときた、神仏に供える田の意)と解する説もある。
 土支田が歴史に現れるのは、永禄2年(1559年)の『小田原衆所領役帳』で、それに「六貫五百文 江戸土支田源七郎分」とある。源七郎は太田新六郎の家臣で、土支田のほか今の朝霞市にも所領があった。
 江戸時代の土支田村は上下二つの組に分かれ、ここは下組の俵久保、西八町(丁)堀、三町目といっていた。八丁堀は長さ8丁(約880m)の堀があったからとよくいわれるが、それは文字に惑わされた説のようだ。堀はハリ(治・墾)の当て字で、新墾の地を意味する。原も同じ場合が多い。旧字名八町原、八町堀は広さ8町(約8ha、この場合は譬喩=ひゆ)の新開地ということらしい。三町目は「さんじょうめ」と濁っていう。由来は明らかでない。
 土支田八幡(土支田4-28)は、むかし、「俵久保の天神さま」といっていた。[ねりま区報 昭和60年6月11日 掲載]

 高松(たかまつ:この辺で唯一のまともなホテルであるカデンツァ光が丘<東日本大震災当日に、帰宅困難になった「Wさま」さんに強引に(笑)御宿泊頂いたホテル>の所在するところ。ワタシや「テツヲタ」さんの御子息方が通った幼稚園の所在地でもあります。みやもとファームって焼肉屋や人造人間キカイダーのロケをした幼稚園があるコトで一部にはツトに有名)・・・江戸時代は上練馬村の小名(こな)の一つであった。地名の由来は村内にこずえの高い松があったからとの言い伝えだが、今はその場所も明らかでない。高松には大きく分けて二つの小字(こあざ)があった。高松と大門(だいもん)である。現在、オリンピック道路(たこ注:現在の笹目通りのコト。ちなみに古くからの練馬原住民は、現在の目白通りのコトを十三間<じゅうさんげん>道路と呼びます。)に「高松大門通り」のバス停の名で残っている。
 むかし、富士大山街道に面して高松寺(こうしょうじ)というお寺があった。明治初年、廃寺になって愛染院(春日町4-17)に合併された。江戸の文人十方庵敬順(じっぽうあんけいじゅん)が書いた紀行『遊歴雑記(ゆうれきざっき)』に高松寺のことがある。「当寺往来の路傍にありて大門凡(およそ)壱町(いっちょう)ばかり門の左右に石の仁王尊あり」。道から大門までおよそ1町(=約109m)というから大きな寺であった。地名の大門は、高松寺の門を指すのだろうか。
 昭和7年、板橋区高松町1、2丁目となった。同18年、町の一部が陸軍の飛行場になった。飛行場は成増飛行場とも高松飛行場とも呼ばれた。今の光が丘地区の南西約3分の1は元高松町である。地図を見るとその様子がよく分かる。昭和44年、住居表示で現町名となった。
 八幡神社(高松1-16)は村の鎮守で通称若宮八幡、江戸時代に御朱印8石をもらった古社である。御嶽(おんたけ)神社(同3-19)境内には高松寺にあった石仁王がまつられている。[ねりま区報 昭和60年5月11日号 掲載]

 光が丘(ひかりがおか:元のグラントハイツ)・・・昭和18年、戦局は日ごとに激しさを増し、陸軍は首都防衛のため、飛行場の建設を急いでいた。白羽の矢は、ここ練馬の一角に当たった。土支田、田柄、高松3か町にまたがる広大な土地である。そこは、まだ町とは名ばかり、田柄たんぼや、練馬大根に謳われた静かで平和な農村であった。多くの農家が立ち退き、肥沃な田畑は成増飛行場と名前を変えた。
 東京は丸焼けとなって、戦争は終わった。飛行場は"つわもの共の夢の跡"となってしまった。
 昭和22年、練馬区が独立した。時を同じくして、飛行場跡に米軍宿舎が建設されることとなり、施設はグラントハイツと呼ばれた。明治12年(1879年)に来日したこともあるアメリカ合衆国第18代大統領グラント将軍にちなんでの命名である。
 それから10年余、施設の内容はだんだん縮小され、遊休化していった。昭和35年ごろから土地返還運動が起こった。23区内に残された唯一最大の空閑地である。返還の展望が開けた44年、区域全体に「光が丘」の町名を住居表示した。緑と太陽のまち練馬を象徴して名付けられた。
 48年、区民一丸になっての運動がみのり、念願の全面返還が成った。グラントハイツ跡地計画には、住宅建設者から2万3千戸の建設が提案されたが、緑を多く確保するため、練馬区は1万2千戸を提案した。52年、練馬区案で合意され、平成4年に光が丘団地は完成した。
 日比谷公園の約4倍になる光が丘公園は、一部が56年末に開園した。58年3月、1~7丁目の住居表示が、全街区にわたって実施された。[ねりま区報 昭和60年2月11日 掲載]

 北町(きたまち:練馬陸運支局の所在地だから、ウチの三男が日々日参するところ。)・・・東武東上線・東武練馬駅を南へでると、旧川越街道である。すでに鎌倉時代から、江戸と川越を結ぶ重要な道路であった。江戸時代には、ここに練馬の宿場がおかれ、東から下宿、中宿、上宿の名で呼ばれていた。本陣や問屋場の跡はもう尋ぬべくもないが、今も残る石観音(北町2-38)や浅間神社のたたずまいのなかに遠い歴史の匂いを感ずる。下宿と仲宿の中程から富士街道が分かれる。富士山や大山石尊への参詣みちである。不動明王を彫った「これより大山道」の道しるべ(北町1-25)が建つ。(※環状8号線と旧川越街道との立体交差のため、不動明王は所有者のもとへ、道標は北町児童遊園(北町1-38-15)へ移転しました。)
 大正3年開通の東上線(現東武東上線)は、17年間練馬を素通りしていた。昭和6年ようやく東武練馬駅ができると、付近に住宅が増え、商店街が発展してきた。翌7年市郡合併で板橋区になったとき、旧下練馬村の北の端だというので「練馬北町」と名付けられた。現在の町名は昭和41年旧町名を踏襲して、住居表示により実施された。
 明治以来練馬の農業を支えてきた田柄用水は暗渠化され、遊歩道となった。信仰の道、富士街道は拡幅され、そこには区内初の地下鉄駅ができた。[ねりま区報 昭和59年6月11日 掲載]

 田柄(たがら:ウチのメインにしている塗装会社の所在地。光が丘公園に隣接。)・・・江戸時代の田柄は、現在の田柄の約2倍の広さがあった。東は北町の自衛隊付近(下田柄)から、西は光が丘(上田柄)まで、上下(かみしも)両練馬村にまたがっていた。寛永16年(1639年)の検地帳に見られる古い地名だが、その由来は定かでない。
 この辺のことを江戸の地誌『四神地名録(ししんちめいろく)』は「畑在所にて田方一分(いちぶ)ばかり、風土すぐれず広きといふのみ」といっている。わずかな田も、水利はほとんどお天気まかせ。水の涸(か)れた空(から)の田んぼがあちこちにあった。田の作柄はあまり芳しくなく、年貢の率は、よそに比べて低かった。
 明治4年、干ばつに悩む村人たちは資金を出し合い、近隣の村々と協力して、玉川上水の分水を引くことに成功した。からの水田は、遠い多摩川の流れで潤った。村人たちの喜びは計り知れなかった。今も天祖神社(田柄4-27)に、その時の記念碑がある。
 昭和7年、旧上練馬村の田柄地区が板橋区練馬田柄町となった。30年代からの宅地化で、田柄川は生活用排水が流され、大雨ごとにあふれ出す「やっかい堀」になってしまった。47年ごろから工事が始まり、今は暗きょ化され、見事な緑道に変身。ジョギングコースにもなっている。川の流れで洗った練馬大根を懐かしんで、その名も「練馬だいこんコース」。昭和42年、住居表示で現町名となった。[ねりま区報 昭和60年3月11日 掲載]

 平和台(へいわだい:昨日御案内した秘匿滑走路の所在地。)・・・旧下練馬村の本村(ほんむら)、重現(じゅうげん)、丸久保といった。本村は、下練馬村の中でいちばん早く拓けた中心地である。村制時代はここに役場や駐在所があった(平和台3-22)。重現は重見とも書き「しげみ」と呼ぶこともあった。すぐ東の方、氷川台1・3丁目に濕化味(しっけみ)という地名がある(濕化味橋)。茂みか、湿地の意味か後考に待つ。地下鉄有楽町線平和台駅前の交差点付近を地元では今も丸久保といっている。ここは富士大山街道と高田道(地下鉄の通っている道路)が交わる交通の要衝であった。平和台4-26には多くの地名と里程を彫った道しるべの馬頭観音がある。

 下練馬村は昭和4年町制を布き練馬町となった。同7年市郡合併板橋区成立のとき、練馬町は北町、仲町、南町の3つに分かれた。ここは仲町(なかまち)の一部となった。
 昭和40年住居表示が実施された。「本村」という案もあったが、村のつく町名は文化練馬にふさわしくないというので現町名に決まった。[ねりま区報 昭和59年9月1日 掲載]

 氷川台(ひかわだい:ほとんど気分は板橋区か豊島区って感じのところ。全国的にも有名な東京少年鑑別所、所謂”ネリカン”の所在地。)・・・旧下練馬村のうち北を田柄川、南を石神井川で区切り、両川の合流点へ半島状に張り出した台地にある。東は都立城北中央公園内で板橋区に接する。
 昭和32年、公園内の旧立教大学グランドを中心に発掘が行われ、多くの住居跡や遺物が発見された。上板橋村の小字名をとって栗原遺跡と呼ばれ、現在公園内に奈良時代の住居が復元されている。数千年の昔から、ここを生活の舞台とする人びとが定住していたのである。
 昭和4年、下練馬村から練馬町へ、同7年、板橋区になって練馬仲町と呼ばれた。昭和14年ごろから現在の平和台地区とともに区画整理事業が進められた。大根と麦畑の台地は、環状と放射状の道路を組み合わせた近代的な町に生まれ変わった。
 昭和40年、住居表示が実施された。鎮守氷川神社(氷川台4-47)の名から、はじめ氷川町と名付けられたが、板橋区に同じ町名があるので、町をやめて台とつけた。氷川神社では桜の咲くころ、石神井川沿いのお浜井戸までの渡御(とぎょ=神輿<みこし>が出ること)と田遊びの伝統的な行事が催される。荘厳寺(氷川台3-14)、光伝寺(同3-24)も江戸初期からの歴史をもつ。[ねりま区報 昭和59年10月1日 掲載]

 錦(にしき:昨日久しぶりに思い出したくらいに、練馬濃度の低いところ。同じく区内の立野町<ほぼ武蔵野市”吉祥寺”の植民地:笑泣>とともに、もっとも認知度が低いと思われます。住んでるヒト、ごめんなさい!)・・・全国に錦町という地名は多い。千代田区錦町は江戸時代一色(いっしき)家の屋敷が2軒並んでいたので俗に二色小路と呼んだのにはじまるという。また、立川市錦町は大正元年陸軍大演習の時、この地に錦の天皇旗が立ったのにちなむという。
 練馬区の錦の場合は町がつかない。全国的にも珍しく、東京ではここだけである。もとこの辺は昭和のはじめまで下練馬村の今神(錦1丁目)、御殿、東本村(錦2丁目)であった。御殿にはこんないい伝えがある。
 徳川5代将軍綱吉がまだ将軍になる前、脚気(かっけ)に悩んで練馬村へ転地療養した。そのときの御殿がここだというのである。また綱吉が病のつれづれに栽培させたのが練馬大根の起こりだともいう。
  昭和7年板橋区の練馬北町、練馬仲町の一部となった。新住居表示で北町の名は残ったが、仲町の名は消えた。かわりに錦をはじめ平和台、氷川台、早宮などの新しい町名が生まれた。錦は御殿にあやかって豪華できらびやかな町発展の願いがこめられている。練馬の古刹(こさつ)、金乗院(錦2-4-28)と円明院(錦1-19-25)は、そうした中にいまも静かなたたずまいをみせている。[ねりま区報 昭和59年7月21日 掲載]

 今日は、若干手抜き気味なのがバレバレですが、これでも二時間掛かっておりますんで、どうぞ、練馬の歴史について御興味を持って頂けますと幸甚であります。

 それじゃー、また明日!・・・明日こそ”全勝優勝”だぁ!!

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2014年12月11日 (木)

秘匿滑走路を走ってみた

 はい、こんばんは!本日のお昼まではドンヨリの空模様で、時折小雨が降っておりましたが、午後3時過ぎあたりからは、どうやら雨もアガって比較的過ごし易い気温が日没後の時間帯まで続きました。昼下がりには、札幌の「I」さんから青森リンゴが段ボールで届きまして、皆で分けて帰りました。本当、お心遣いに感謝いたしておりますヨ。

201412110120141211022014121103201412110420141211052014121106 ・・・「”くるみ商店街”?初めて聞いたナ。コレ、どっちからでもトベる様に考えられてたのかなぁ。」・・・帰り道で迷い込んだら、練馬区に在る”錦一丁目”という区民でもほとんど知らない様な地名のところに出てしまいました。ワタシはもちろん知ってるところなんで、ようやく迷い道から解放された気分。ともあれ、ここが一方の端部なのだな。

 あ、ナンのハナシかと申しますと、先日当ブログで取り上げました旧成増飛行場跡(その後にグラントハイツ、転じて現在の光が丘公園とその周囲一帯)を探訪するネタの中でチビっとだけ触れておりました”秘匿滑走路”。「その”秘匿滑走路”であったとされている道路はコレである」と云った写真を本日撮ってまいりましたんで、ソレをば開陳。そぼ降る雨の午前中、とあるイタ車ディーラーさんに行って、昨日軽くオファーを受けていた”Aで始まって9で終わるシリーズ”の信頼性云々について詳しい御指導をば賜り、つまるところ「んぢゃ、今回の御希望(可能な限りコストは抑えめ、また”読める”様にしたいが、少しはアクも味わいたい、ケドあんまりそこいらを走って無い様な”マセラティ以外の”4ドアセダンで:コレ結構な難題←笑泣)には適当ではないな(トホホ)・・・」と云う結論に至り、「どーしよーかなぁー」とアレコレ考えながら走ってたら、道を間違えた。

20141211072014121108 気が付けば、たまたま秘匿滑走路の謂われある場所に居たと云うワケです。

 コレをそのままひたすらに真っすぐ走って行けば、ちょうど環状8号線と並行して走るカタチとなり、みるみる平和台方面に近づきます。「ああ、このタバコ屋さんはムカシからここに在った様な気がするな」・・・スタートラインであった錦団地のあたりには、付近に練馬区立平和台図書館と云う施設がありまして、ワタシが中学生の当時には出来たてホヤホヤの新鋭館としてモダンな外観が目を惹いたモノでした。その頃にはよく効いた冷房とロビーの自販機にあったセブンナップを求めて、特に真夏にはお世話になったモンです。今でもそうだけど、開架・閉架書庫ともに自動車関連のコアな蔵書が充実しています。

 閑話休題・・・いにしえの滑走路、そのもう一方の端部は大手有名スーパーになってました。ついこの間までは、ここに老舗の幼稚園があったハズなんですが・・・戦後70年余り、ヒトも変わりましたが、街もスッカリ変わりました。かつてはこの場所に人知れず滑走路(一説には成増飛行場に降りられなくなった機体のための不時着用と云うハナシも・・・)があったなんてコトは、現在この平和台に住んでいる人々もほとんど知らないんだろな。こういった過去を覆い隠すために平和台と名付けられたのかもしれないんだけどな。本日も”ギリギリ更新”で失礼しました。

 それじゃー、また明日!・・・明日こそ”全勝優勝”だぁ!!

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